「神に栄光あれ」ヨハネ16:31-33 山本光一

出エジプト記20:13-17;ヨハネによる福音書16:31-33

1 プロローグ

一昨年(2023年)の9月に10日ほどパレスチナに行ってきた。今回で4度目である。帰国して10日後の10月7日に所謂「ハマスとイスラエルの戦争」が始まった。帰国後、パレスチナから「あなたが、戦争が始まる前にここを去ったことを神に感謝する」とメールで書いてくる度に「申し訳ない」という思いがつのる。

2 ガザの現況

最近、主の祈りを祈る時、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」が真剣なものとなっている。
主の祈りの主語は、「わたし」ではなく「わたしたち」である。「我ら、わたしたち」の中にはパレスチナ・ガザの人びとも含まれる。食事をする時に「わたしだけ食べていてよいのか」という思いにさえなってくる。
先月、「ガザの餓死寸前の子どもたちは2万人」というニュースを読んだ。さらに最近は、子どもたちばかりではなく、餓死をした大人たちの写真が毎晩のように送られてくる。
先週初めのニュースに2023年10月7日以来の餓死者が114人という報道があった。現在、5人に一人、40万人が餓死の危険にさらされている。

今日(7月27日)で、一昨年10月7日から始まった「戦争」から569日が経った。戦争を統計的数字で表現することには躊躇を覚えるが、ガザ地区だけで55,000人が亡くなり、12万人が負傷していると報道されている。報道される数値には差異がある。例えば保育器に供給する酸素ボンベがガザに搬入されないので乳児が亡くなっている数は数えられているのか。死傷者の90数パーセントが一般市民であり、その3分の1が子どもたちである。ガザ地域の平均年齢は、19.5歳。子どもたちがいかに多いかがわかる。
50万件の住宅、500以上の学校、2000の工場、30の病院、65の診療所、650のモスク、3つの教会が破壊され、今まで住んでいたところから避難を余儀なくされている人々は200万人を越えている。人口は2022年の統計で237万人であった。そのうちの200万人が避難民となっている。

イスラエル軍は病院も救急車も狙い撃ちする。「手術室が攻撃され、今日は負傷した女の子の足を病院の廊下で麻酔なして切断した」というようなレポートが続いている。

これを「戦争が起こっている」というべきなのか。「パレスチナ紛争」などと報道されているが、ジャーナリストの土井敏邦さんが講演で良く言われることであるが、「紛争」という言葉を聴くとわたしたちは50/50で争っているかのように思う。しかし、実際は武力の差が大きすぎて紛争にさえなっていない。わたしは「今、イスラエルによるパレスチナ人虐殺が起こっている」と言うべきだと思う。

3 占領政策
 パレスチナに行く度に、1967年の第3次中東戦争から始まったイスラエルによる占領状態が強まっていることを感じる(そして2023年10月7日から状況は更に悪化した)。
イスラエルのネタニヤフ首相は「現在の戦争は10月7日のハマスの攻撃に対する防衛戦闘である」というが、わたしは10月7日のハマスの攻勢はイスラエルによるパレスチナ占領への抵抗だったと表現したい。それくらい、パレスチナ人たちは追いつめられていた。
 10月7日以来の「戦争」は、ハマスの攻勢が原因ではなく、イスラエルによる占領政策である。

*検問所

 西岸地区には戦争前は700箇所、現在880箇所ある検問所(チェックポイント。何をチェックするかというと武器を持っていないか否か)、そこにはイスラエル兵(と言っても徴兵は男性が18歳から3年間。女性が18歳から2年間なので二十歳そこそこの青年たちである)が常駐して、パレスチナ人たちを検問する。パレスチナ人のIDカード(身分証明書)を一瞥してポンと道路に投げ捨て、それを拾わせたりする。検問所は、日本で言えば、千葉市から秋葉原で電気釜を買おうと思ったとして、わたしたちはまず市役所に行って通行許可証をもらわなければならない。そして船橋、新小岩、錦糸町くらいにチェックポイントがあるだろう。そこで下手をすると1時間や2時間コンクリートの廊下に立ったまま待たされる。

*難民キャンプ

西岸地区には現在19の難民キャンプがある。そこに住む人たちはイスラエルによって住む場所を追われた人たちである。難民キャンプは、主に、イスラエルが勝手に建国した1948年と第3次中東戦争があった1967年に発生して、現在、難民は1948年の時点で70万人であったものが560万人に及んでいる。ガザは全体が元々難民キャンプだと言ってよい。ここで数えられる難民は130万人である。

 ベツレヘムの難民キャンプに住む旧友を訪ねた。難民キャンプと言ってもテント生活ではない。1948年のイスラエル建国時に難民となっているのだから70数年間もテントで暮らしている筈はなく、テントを張っていたその場所に石造りの2階建ての家を建て、客人をもてなすことを誇りとするアラブ人らしく私を豪華な応接間に通し、何杯もコーヒーを出しながら孫が生まれた話を嬉しそうにしてくれた。日常生活の喜びは日本にいるわたしたちと変わらない。
 

国を防衛するのだと徴兵され、しかし、パレスチナ市民を弾圧し射殺するイスラエル兵。孫が生まれたと喜ぶパレスチナ人。この二人はイスラエルという、とてつもなく非人道的な国家の占領政策に翻弄されていて、青年らしさを失ったイスラエル兵は抑圧者の憂鬱を帯び、孫の誕生を喜ぶパレスチナ人は抑圧からの解放への熱情を帯びている。

わたしが息子のように思っている西岸地区の北にあるナブルスに住むパレスチナ人がいる。彼は大学の医学部の教授であり大学病院で医者として働いている。
ある日の夜のメールは、彼にはめずらしく消耗した内容であった。

「お父さん、わたしは疲れ果てた。わたしたちパレスチナ人全員が死にかけている。」

その日は日曜日であったが、その日の未明にナブルスにあるバラータという難民キャンプがイスラエルの部隊に襲撃され、イスラエル兵に撃たれた人たちが大学病院に運び込まれ、血まみれの手術室で8人の少年たちが死んだ。彼は、朝から少年たちの命を助けようと必死になったが、できなかった。
わたしは「絶望するな」と書いた。しかし、どのように希望を持ち続ければよいのか。
その日は、「悪しきことはいつか敗北し、正しいことはいつか勝利する。その希望を持ち続けよ」。そう書いた。
そうすると彼は「アル・ハムドゥリラー」と書いてきた。これは「アッラーの神に栄光あれ」と訳されている言葉だが、これが、パレスチナ人たちが「絶望しないで希望を持ち続けるということなのか」と思った。わたしはこの言葉を主の祈りの最後の言葉である「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」と理解している。
国はイスラエルに占領され、圧倒的なイスラエル軍の武力に支配され、経済は疲弊しているが、国も力も栄も、限りなくイスラエルのものではなく、神のものである。どんな悲惨の中にも神の救いのみ業が働いているのだ。
彼の「アル・ハムドゥリラー」、「アッラーの神に栄光あれは“We shall over come”だな」と思った。We shall over come(勝利を我らに=讃美歌第2編164番「勝利をのぞみ」)の原曲は、黒人のメソジスト教会の牧師が1901年に作った霊歌だった。1960年代にアフリカ系アメリカ人の公民権運動が高まる中でフォークシンガーのピート・シーガーが広め、運動を象徴する歌にした。わたしたちが使っている讃美歌にも採用されている。わたしは、実は、礼拝中の讃美歌にWe shall over comeをほとんど採用しない。
歌詞にある“deep in my heart. I do believe. we shall over come ” (わたしは、わたしたちが勝利することを心の底から信じる)という部分は、たたかいに勝っている人が歌うものではないだろう。
この言葉は、敗北して追いつめられている人でないと出てこない言葉だと思う。追いつめられた場面にあまり遭遇しないので、この曲を採用することはあまりない。
たしかに、彼は、血まみれの手術室で「パレスチナ人全員が死にかけている」と絶望的になった。その時に彼は「わたしは、わたしたちが勝利することを心の底から信じる」と書いてきたと思う。彼にとってただ神に頼る信仰だけが、彼を励ますことであった。

 所謂「パレスチナ問題」はパレスチナ人自身が解決するとわたしは信じている。絶望的な状況で、しかし、底抜けに元気なパレスチナ人にはそれだけの力が、問題解決の力がある。
日本にいるわたしたちが、今、しなければならないことは、国際世論で非人道的イスラエルの占領政策と虐殺行為を、追いつめて止めさせること。そして、人道支援であると思う。

わたしは、パレスチナの人びとが、人間としての尊厳を取り戻し、平和的に生存することができる日は必ず来ると信じる。その日は10年後かも知れないし、50年後、100年後かもしれない。しかし、その日は、今日と言う日に確実に連なっているのだから、今日という日を大切に生きたいと思う。

イスラエル建国の年、1948年は南アフリカでアパルトヘイトが法制度として始まった年である。半世紀前の学生時代、わたしはアパルトヘイトが廃止されるのは到底無理だと思っていた。しかし、この制度は1994年に廃止された。ネルソン・マンデラは「実現されるまで、それは不可能に思える」という言葉を残している。

必ず、パレスチナに平和が回復されることを、パレスチナの人びとが人間としての尊厳を取り戻すことができる日が来ることを信じて歩みたいと思う。