歴代誌下6:12-21;テモテの手紙I 2:1-6
数年前に絶交してしまった2人の人がいました。AさんとBさんです。Aさんは仲直りをしたいと願うようになりました。しかし、自分から仲直りを申し出てもBさんがどう反応してくるかはわかりません。もしかしたら以前よりもひどく自分自身が傷つけられるかもしれません。けれどもAさんはそんな不安を払拭して、Bさんを覚えて祈り始めました。
「どうか、Bさんが幸せでありますように」。
この祈りをしばらくのうちくりかえしました。それに加えて、Bさんと仲直りして、また以前のように親しくしている自分の映像を頭の中に思い浮かべました。Bさんを憶えての祈りと親しくしているイメージを思い浮かべる、この2つのことをしばらくくりかえしているうちにAさんはBさんに電話をかけてみよう、と思うようになりました。電話で何を話すのか、Aさんは自分からBさんに謝ろうと思ったのです。決心していざ電話をかけようという時、反対に電話がかかってきました。出てみると電話の主は何とBさんでした。
このように思いが通じるということは意外にもよくあることです。相手に知られずに秘かに祈ることへの効果は強いものがあります。キリスト教会では伝統的に「執り成しの祈り」と呼んできました。私たちのこの礼拝の中でも、自分の祈りの課題ではなく、他者の持つ課題を、私たち教会が代わって祈る、聖公会の礼拝では「代祷」と言いますが、つまり教会が他の人の祈りを代わって祈るという行為が伝統的に続けられてきました。
私たちはなぜ祈るのでしょうか。今日与えられたテモテへの手紙一2章には、パウロが若いテモテに語る勧めが記されています。「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」(1節)。この「すべての人のために」という勧めが、今日のメッセージの出発点です。
私たちは祈るとき、つい自分のことや、自分の家族、または教会のことに思いを集中させてしまいがちです。しかしパウロは、祈りが内向きではなく外に開かれていくように、つまり「すべての人々」のために祈るようにと勧めています。それは、祈りが単なる自己満足や願望成就の手段ではなく、もっと広く、世界とつながる行為だからです。
ここでパウロが具体的に挙げているのが「王たちやすべての高官」のためにも祈るようにと勧めていることです。これは単なる高い地位にある人々のために祈れということではありません。為政者や指導者たちが善き判断をし、社会全体に平和がもたらされるように、という願いです。
「テモテへの手紙」が書かれた時代、原始キリスト教会にとって「王たちや高官」はまさに彼らを迫害する存在でありました。兵によって強制的に支配され、信仰を押しつぶされるような時代です。そんな彼らのために祈ることなど、誰もが抵抗を感じたことでしょう。
そしてパウロは「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」と言います。ここに、祈りの根本的な目的があります。ある人はこう言いました。「祈りは世界をつなぐ」と。そうです。祈りは、私たちの願望を神に届けるだけの手段ではなく、神の御心と世界をつなぐ窓の役割を果たしているのです!
そして私たちは「すべての人々の救い」を祈ることによって、自分の内にある分断や無関心を乗り越えていくように招かれています。けれども現代社会において「すべての人々のために祈る」と言われたとき、私たちは素直に祈れるでしょうか。戦争の指導者のために祈ることができるでしょうか? 差別的な発言をする政治家のために感謝できるでしょうか? あるいは、自分の価値観と異なる考えを持つ人たち、異なる宗教を持つ人や、自分の敵と感じるような人々のために執り成すことができるでしょうか?
祈りとは、私たちの願いを神に伝える行為であると同時に、神の御心を私たちのうちに映し出し、世界に向かって開かれていく営みです。祈ることで私たちの心を変えられていきます。他者のために祈ることで、私たちはその人との関係を結び直す第一歩を踏み出すのです。パウロはあえてそのことを「まず第一に」勧めているのです。これは、相手にとってではなく、むしろ自分たち自身のためなのです。2節を見てみましょう。
わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。
私たちの平穏のためだけでなく、社会全体の秩序と善が保たれるようにという願いが込められているのです。私たちが人を恨み、敵視し、祈れないでいるとき、心の中に平穏はありません。闇があるのです。しかし「執り成す」という行為は、たとえ心の中に葛藤があっても、自分の中に巣くう敵意や怒り、痛みと向き合うきっかけになります。祈ることは、相手を変える前に、自分を変える力をもっています。
実際に「あの人のために祈るのはつらい」「祈れない人がいる」ということは私たちの間でもよくあることでしょう。私自身、その気持ちを否定できません。けれども、無理に祈らなくても、「今は祈れません。イエスさま、どうか私に代わって執り成してください」と、神に委ねると良いのです。イエス・キリストは、神と人との間に立って、今も私たちを執り成してくださっているお方です。
3-4節です。
これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
神はすべての人の「救い」を望んでおられます。ある特定の、ある一方の、ある人々だけをお救いになろうというのではなく、すべての造られた者たちに、滅びへの道ではなく、救い主イエス・キリストを差し出されたのです。これが神がそのひとり子をこの世界に送られた事実です。
さて、私たちは誰かの祈りに支えられ、誰かを祈りに覚えることで、神を通してその人たちとつながっています。それは、4節のところに神が「すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられる」からなのです。
都内にあるA教会は小さな教会です。しかし、毎年そのA教会で行われるバザーには区のフェスティバルなどと同じ日程でなされるため、2000人もの人が来会するのだそうです。教会の隣が区役所なのです。ある年のバザーの際にその教会では「祈りのカード」というものをバザーに来られた方や道行く人に2000枚が配ったのだそうです。そこには3枚のカードが入っていまして、そのうち2枚はプレゼントのクリスマスカードなのですが、残りの1枚に「祈ってほしいことのある人は、どうぞ無料でお祈りします」と書かれていました。配ったうち、教会に送られてくるのは10数枚なのだそうですが、教会の祈りが「ひとりよがり」「自分たちだけの祈り」にならないために、地域の人々の祈りを、教会の祈りとするということを重んじて、この業を始められました。まさに教会が、地域に住む名も知らない人たちの祈りを、代わって祈るという実践をされておられます。
神は全ての人々のためにお働きになるのです。そのために、唯一の仲介者としてイエス・キリストをこの世にお与えになりました。
神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました(5-6節)。
このキリストの愛によって、私たちは祈ることを学びます。そして、祈れなかった相手が、やがて祈りに覚える相手へと変えられていくのです。
インドのマザー・テレサのところで働いていたシスターが、ある時、子どもの口に息を吹きいれていました。つまり人工呼吸をしていたのですが、その子どもは伝染病にかかって死にかけていました。もう誰が見てもその子は助からない、それでも彼女は息を子どもに吹きいれていました。もしかしたらシスターに感染の恐れがあるかもしれないので、周囲の人々はそれをやめさせようとしました。けれどもそれを見ていたある老シスターは、人々を押しとどめて、「やらせてあげなさい。彼女は自分のためにそれをしているのですから」と言ったのです。このシスターは子どものいのちが助けられるように、必死に祈りました。その祈りは行動に変えられて行きました。これはまさしく神さまの愛がこの地上の誰も知らないようなところで実現したのではないでしょうか。
私たちはなぜ祈るのでしょうか。それは神さまの愛の花を=どんなに小さな花であっても=この地上に立派に咲かせるためなのです。私たちが祈らなくても、神は私たちの必要をご存知です。しかし、このシスターのように私たちは心に強く祈ることによって、神の愛を実現することができ、また同時に自分の行動にそれは表れて人間として成長する機会となるのです。「なぜ祈るのか」──それは、神の愛をこの地上に実現させるため。そして、私たち自身が神のかたちへと造りかえられるためなのです。
祈ることをやめていけません。願いと祈りと執り成しと感謝とを、すべての人々のために捧げ続けましょう。互いに祈り合うことが、世界を少しずつ、でも確かに変えていくのです。しかし今日、私たちが生きる社会にはさまざまな分断があります。戦争と難民の問題、移民排斥の声、性別による差別、経済的格差、世代間対立など――
私たちはしばしば世界を「私たち」と「彼ら」に分けてしまって、祈りの対象から外してしまうのです。たとえば、戦争において敵国の兵士のために祈ること、あるいは爆撃の命令を下す指導者のために執り成すことは、心情的に受け入れがたいかもしれません。
しかし、そこにこそ、神の視点が求められています。「すべての人々」の救いを望まれる神のまなざしに、自らの祈りを通して近づくことが、私たちの務めなのです。
このところ、私たちは移民や難民に対して排他的な態度をとる政治家の言葉に辟易してきました。しかしもしかしたら私たち自身も異なる文化や信仰を持つ人々を遠ざけようとする社会の風潮に無自覚に加担しているかもしれません。
そうした中で、「すべての人々」のために祈るとは、自分と異なる他者をも神のもとに導こうとする神の愛に、私たち自身の心を整えることでもあるのです。祈ることは、神の御心に心を合わせ、神の和解の業に参与することです。
私たちの時代においても、戦争や対立、差別や分断が世界中で起こっています。たとえばウクライナやパレスチナの地では、今なお人々が傷つき、恐れの中で暮らしています。また、移民・難民として故郷を追われた人々は、国境の壁に阻まれ、受け入れを拒まれ続けています。
今、日本社会においても貧困家庭の子どもたちへの支援の乏しさなど、多くの人が声を上げられず、孤立しています。私たちはこれらの人びとのためにも積極的に執り成していきたいと思います。
ユダヤ人哲学者マルティン・ブーバーは、その著書『我と汝』の中で、人間の根源的な関係を「我-それ」と「我-汝」に分けました。「我-それ」は対象を物として扱う関係、「我-汝」は相手をかけがえのない存在として、人格として出会う関係です。祈りとは、まさに神との「我-汝」の関係の中に自分を置く行為です。そしてもう一つ大切なのは、この神との「我-汝」の関係に生きるとき、私たちはこの世の人々一人ひとりとも「我-汝」の関係を結ぶように促されていくということです。相手を物や手段ではなく、神に愛されたかけがえのない存在として見るようになる。祈りとは、私たち自身の関係性の回復の場でもあるのです。
私たちの祈りは、神の大きなご計画に参与する行為です。祈るとは、神の御心に私たちの「生」を合わせていくことです。あります。そして私たち自身が、「すべての人の救い」のために仕える者へと変えられていくのです。祈りには、無力さの中の希望があります。すぐには世界が変わらないように見えても、祈りによって私たちは変えられます。変えられた私たちを通して、神はこの世界に愛と平和の種を蒔いてくださいます。
「なぜ、祈るのか」。それは、神がすべての人を救い、真理に導こうとしておられるからです。
だからこそ、私たちは祈るのです。敵のためにも、権力者のためにも、遠い国の難民のためにも、名も知らぬ誰かのためにも。そして、祈る私たち自身が変えられ、神の平和の道具としてこの地上に遣わされていくのです。
祈ることは、神の愛をこの世界にもたらすための第一歩です。