「何をしてほしいのか」マルコ10:46-52 中村吉基

サムエル記下7:8-16;マルコによる福音書10:46-52

今日の聖書の箇所は、主イエスが大勢の群衆や弟子たちとともにエリコの町から出て、いよいよ十字架の待ち受けるエルサレムへ向かおうとされた時の話です。ある人が、47節「ダビデの子イエスよ、憐れんでください」と叫ぶのです。「ダビデの子」というのは、救い主(メシア)は旧約のダビデ王の子孫から生まれると預言されていたため、救い主という意味として理解してよいと思います。「救い主イエスよ」と、きっと渾身の叫びをあげたのでしょう。

彼の名はバルティマイと言いました。ティマイの息子のバルティマイ。「不浄の息子」という意味を持つので、差別的にこう呼ばれていたのかもしれません。この同じ記事はマタイとルカによる福音書にも記されていますが、バルティマイという名が出てくるのはこの記事だけです。

バルティマイは視力を失い、「しょうがい」を負っているために差別され、それによって社会の片隅に追いやられて職業もなく、ただ物乞いをするほかはないどん底の生活を強いられていました。彼の持ち物と言えばたった一枚の上着のみで、エルサレムに向かって旅を続ける人々がこの町を通る時に、彼に施してくれるのを待ち受ける毎日でした。彼はおそらく何のために生きているのか、将来に希望も持てず、暗く出口のない毎日を送っていたのです。

その時、主イエスが彼の横をお通りになりました。バルティマイがいたのは、エリコからエルサレムに向かう外の道でした。エリコからエルサレムに行く人であれば必ず通る道でした。この時、エルサレムでは過越祭が行われる直前で、人々でごった返していたでしょう。

彼は目が見えないので直接主イエスのお顔を見ることはできませんでしたが、群衆の物音や人びとの話し声から主イエスが来られるのがわかったのでしょう。彼は力を振り絞って叫びました。「ダビデの子イエスよ、憐れんでください」。これに驚いた主イエスの側近たちは彼を叱りつけて、黙らせようとしました。しかしそれでもバルティマイの叫びはおさまることはありませんでした。「ダビデの子イエスよ、憐れんでください」。ある聖書はここをこう訳しています。「わたしの苦しみを分かってくれ」。

どのような理由で周囲の人々は彼を黙らせようとしたのか、聖書には書かれていません。しかしこのようなことが考えられるのではないでしょうか。それは、苦しむ人々への鈍感な心です。決して周囲の人々に悪意があったわけではないかもしれませんが、この社会のどん底に落とされた男の気持ちなど、分からなかったのでしょう。主イエスのすぐそばにいる人間たちが、そのことだけで何か特権を得ているような気持ちになっていたのかもしれません。

けれどもバルティマイにしてみれば、このチャンスを逃してはならない、自分はいつまで経っても出口の見えない暮らしを続けていかねばならないと思っていたはずです。人々からは軽んじられ、人間扱いされることもない、悲惨なこの日々から救われたい。そのような思いが、大きな叫びとなっていったのです。

バルティマイが「ナザレ(人)のイエス」だと聞いて「わたしを憐れんでください」と叫び始めました。「ダビデの子」とイエスを呼ぶのには彼の信仰が窺えます。主イエスは彼の叫びに目を向けられ、「何をしてほしいのか」と問われ、そして彼は「目が見えるようになりたい」と懇願します。主イエスは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」とみ言葉によって救い、彼はイエスに従うものとなりました。

さて古代社会において、親を失う、捨て子にされた子どもたちは、故意に身体を傷つけられて物乞いとされたことが多くあったと言われています(W.シュテーゲマン)。中には視力を奪われる。骨を折られたり、捻じ曲げられたり、そこから逃げ出すこともできずに単純労働に使われたそうです。バルティマイもそんな一人であったかもしれません。

古代社会で盲目であることは不幸とされ、謂れのない差別を受けました。主イエスはそんなバルティマイに「あなたの信仰があなたを救った」という言葉によって癒しのわざをされました。そして彼はイエスの道に付いて行きました。

主イエスの深い愛に、バルティマイは「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」とあります。この上着を脱ぎ捨てることは、これまでの不幸な日々をすべて置いて、自分の身ひとつで主イエスのもとに来たということです。バルティマイの持てるものと言えばこの「上着」一枚しかなかったのですから、彼は「すべて」を手放して主イエスのもとに来たのです。

主イエスは言われます。「何をしてほしいのか」。これは彼の苦しみを正面から受け止める言葉でした。「先生、目が見えるようになりたいのです」とバルティマイは答えます。素直に率直に、自分の願いを申し出ました。彼は神の〈いのち〉に生きることを願ったのです。

実は今日の箇所の前に入れられている物語(10:35-45)では、弟子ヤコブとヨハネが「(あなたが)栄光をお受けになる時に、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願い出ます。その時にも主は同じ問いをしています。「何をしてほしいのか」。しかし彼らの願いは自分たちが栄誉と地位を得ることでした。一方、バルティマイはただ「見えるようになりたい」とだけ言ったのです。そのまっすぐな祈りが、主の心に届いたのです。バルティマイは出世を望んだのではなく、神の〈いのち〉に生きることを願いました。だから癒されて、目が見えるようになると「イエスに従った」(52)とマルコ福音書は記しています。自身の信仰が自身を救ったと主イエスは言います。

今日の箇所から私たちが学ぶことは、自分の気持ちをストレートに神に告白しているかということです。祈ることは神との対話であり、自分の叫びを神に受けとめていただく行為です。バルティマイのように「わたしの苦しみをわかってください」と素直に助けを求めるところに、神は耳を傾けてくださるのです。

以前のことですが、東京で喉の「しょうがい」があるために保育園の入園を拒否されていた女の子と両親が、その取り消しを求めた裁判がありました。地裁は市の処分を取り消し、5つある保育園のいずれかに入園を承諾するように命じた判決がくだりました。私はいつも、この5歳の女の子が「保育園に行きたい」とけなげに言う姿に心が痛む思いがしていました。入園を許可された時に、「保育園に行くことができてうれしい」という姿に心が熱くなりました。

今日の聖書の記事やこのニュースを通して〈叫び〉をあげることの大切さを学ばされます。私たちは落ち込んだり、失望したり、悲しくなるような経験を人生の中で無数にするわけですが、その時、私たちは黙っていてはいけないのです。うやむやにしてはいけないのです。心の中にその思いを閉じ込めていてはいけないのです。「主イエス、わたしの心の苦しみをわかってください」と叫んだバルティマイは、まったく新しい人生を歩み出しました。私たちも神に心の底からの〈叫び〉をあげる者になりたいのです。

皆さん、祈りの中で今、自分の気持ちを率直に神に告白おられますか。でもそうすることができなくても神は私たちのすべてをご存知です。しかし、そうであるならば祈ることは必要なくなるでしょう。私たちが祈るのは神との対話であり、自分の叫びを神に受けとめていただくのです。でも間違えてはいけません。祈りは神を説き伏せることではありません。神のみ心に私たちを合わせていくことです。ともすれば私たちは祈る時に、美しい言葉を並べ立て、カッコのいいことしか言わないのではないでしょうか。人前で祈る時に、率直に神に向かう心を祈りに込めるよりも、人に聞かせるための祈りをしていないでしょうか。さらに、もっと自分をさらけ出して、バルティマイのように「わたしの苦しみをわかってください」と素直に助けを求めるところに神はそれを受けとめて、急いで助けに来てくださるのです。私たちの喜怒哀楽というものを神に打ち明けるべきです。そのより一層神の大きな存在を私たちは経験することが出来るのです。

主イエスは今朝皆さんにこう言われます。

「何をしてほしいのか」