「共に喜ぶ」フィリピ2:12-18 中村吉基

イザヤ書60:19-22;フィリピの信徒への手紙2:12-18

今日私たちに届けられたのはフィリピの信徒への手紙2章12節から18節までです。この手紙は、初代教会の重要な働きを担った使徒パウロが、愛してやまなかったフィリピの教会の人々に宛てて書いたものです。彼らはまだ信仰の道を歩み始めて間もない、いわば信仰の“初心者”でした。しかし、パウロはその彼らに向けて、深い信頼と愛情をもって語りかけています。

パウロは冒頭で、「わたしの愛する人たち」と呼びかけています。「愛する人」これは、単に人間的な好意を表す言葉だけではありません。神ご自身が愛しておられる人々だという意味が込められています。そして、パウロ自身もこの教会の人々を心から愛していたのです。この前の2章2節でも「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」と記しており、彼らとの間には深い信仰的な結びつきがあったことがここから分かります。

同じ12節では、「わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて」と語られています。これは、パウロが今は遠く離れた場所で宣教しており、フィリピの教会には実際にはいないという状況を指しています。パウロは一つの教会を開いてそこに長くとどまりませんでした。それは近い将来、キリストが再びこの地上に来られると信じていたからです。様々な土地に宣教に赴いて、できるだけ多くの人たちとキリストの救いに導きたいと考えていたからです。それゆえ信仰の道を歩むうえで、使徒がそばにいるかどうかではなく、キリストに対する従順さ、つまり「聴き従う」姿勢が何より大切だと教えています。

「従順」と訳されたギリシア語には、「耳を傾けて従う」という意味があります。ただ聞くだけでは信仰とは言えません。聞いたことを心に留め、実際の行動へとつなげていく。これこそが、信仰者の歩みなのです。聖書には信仰の道に入ることを「従う」と表現されているところがあります。パウロが宣教したキリストの言葉に聴き従うということです。ただ聴くだけではない、そこから自らの歩みを起こして従う、それが信仰です。

12節の後半でパウロは「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と続けます。これは「怖がって生きなさい」ということではありません。むしろ、神の前に謙虚であること、そしてキリストに対して最大限の敬意と畏敬をもって歩むように、という勧めです。なぜなら、そのすぐ前の11節には、キリストご自身が神でありながら、その身を低くし、僕のように人間となって、十字架の死にまで従われたと記されています。そのキリストに倣うことこそ、私たちの信仰のあり方なのです。

次の13節にはたいへん慰めに満ちた言葉があります。

「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」

神は遠く離れた天の彼方におられるのではありません。神は、私たち一人ひとりの“内に”働いてくださるお方です。すべての人の中におられ、心を動かし、行動へと導いてくださるのです。信仰とは、自分の力でがんばることではありません。神が私たちの内側から、望みと行動を起こさせてくださるのです。

14節には、「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」とあります。正直に言えば、私たちはこの言葉に耳が痛くなる思いがします。誰でも日常の中でつい不平を言ったり、理屈をこねたりしてしまうものです。しかし、パウロはそれが「喜び」の欠如から来るものだと示唆しています。不平や屁理屈は、神が私たちの心に植えつけてくださった喜びを曇らせるものです。神はいつでも私たちの内に働いてくださっています。その働きを信じ、喜びのうちに歩むことが求められています。

パウロはローマの信徒への手紙の中で「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」と語っています(10:10)。口で「イエスは主である」と告白するのに、その同じ口から不平や理屈ばかり出てくるとしたら、それは信仰の本質から離れてしまうことになります。

15節では、信仰に生きる者は「とがめられるところのない清い者」、すなわち神にささげられるにふさわしい、傷のないいけにえのような存在であるべきだと語られています。いけにえにするための傷のない動物を指していました。神の子、それはクリスチャンたちを指しています。一人ひとりが聖なるものとして神のために奉仕するものということを示しています。そして「よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き」と続きます。キリストを信じる者は、この世界にあって、まるで夜空に輝く星のように、光を放つ存在であるべきだというのです。

「よこしま」で「曲がった」ものとは、神を拒絶する人たち、神に背を向ける人たちを指しています。神の子とされた人々はよこしまな曲がった時代の中でも光の子として「星のように輝く」人だというのです。その光はキリストを指し示します。ここで言う「光」とは、自分の力で輝くことではありません。キリストの光を映し出すこと、キリストの福音を指し示すことです。

16節の「命の言葉」とは、イエス・キリストの福音のことです。これを心に保ち、信仰の灯を絶やさずにいるならば、パウロがフィリピの人々に注いできた労苦は無駄ではなかったと、誇りに思うことができるのです。先ほども申しましたようにパウロをはじめ、初代のクリスチャンたちは、キリストが再びこの世に現れる(再臨)出来事が直近に迫っていると信じていました。「キリストの日」とはその日を指します。キリストの日にフィリピの教会の人々が神の裁きを受けず、非難されないならば、パウロがこれまで手塩にかけて信仰の指導をしてきたことが豊かに実り、それはパウロの誇りとなるだろうというのです。

皆さんは、「暗いと不平を言うよりも、進んで明かりをつけましょう」という言葉をご存知でしょうか。これはカトリック教会のラジオ番組「心のともしび」の冒頭の言葉ですが、この言葉が聖書にそのままあるわけではありません。それでも、今日のこのフィリピの手紙の内容を踏まえると、この言葉はまさにパウロの教えと一致しています。クリスチャンは、暗い世においてこそ、小さな光を灯す者でありたいのです。

そして17節、18節ではパウロの心の奥深くが見えてきます。「たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます」と彼は言います。つまり、自分が殉教という最期を迎えるとしても、信仰の共同体が神に向かって生き、福音の教えが広がることが、何よりの喜びであると告白しているのです。

彼は、ただ「自分の救い」だけに関心をもっていたのではありません。むしろ、自分の命をも神の働きのために喜んでささげたい、そのような献身の姿勢を持っていたのです。そして、最後に彼はこう言います。

「あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」

信仰とは、義務でも、我慢でも、窮屈な規則でもありません。喜びに満ちた、命の道です。神が私たちの内におられ、私たちを愛し、導いてくださっている。そのことに気づくとき、私たちは自然と喜びにあふれるのです。

今週もまた、神が私たち一人ひとりの内に働いてくださっていることを信じつつ、「星のように輝く」歩みをしてまいりましょう。そして、どんな時にも、どんな状況にあっても、パウロが言ったように、「あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」という招きに応えていきましょう。