イザヤ書60:1-5;エフェソの信徒への手紙5:8-14
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(エフェソ5:8)
私たちは以前、神を知らないまま、自分中心に歩み、希望や命の確かさを持たずに生きていた存在でした。私たちが先ほど共に聴きましたエフェソの信徒への手紙は2000年前に、イエスの教えを当時の世界に広めたパウロという伝道者によって書かれたものです。パウロはこのような以前の生き方を「暗闇」と呼びます。しかし、今やキリストによって神を知り、恵みの中に生かされる者とされました。私たちはもはや暗闇ではなく、「光」となったのです。
ここで言う「光」は、単なる明るさや視覚的な光ではなく、イエス・キリストそのものを意味します。キリストは太陽のように、世界を照らす光としてこの地に来られました。そしてそのキリストに結ばれることで、私たちもまた「光の子」とされるのです。
パウロは「光の子として歩みなさい」と勧めます。「歩む」という言葉(ギリシア語で「ペリパテオー」)は、「生きる」「生活する」という意味も持っています。つまり、「光の子として生きよ」、という神の呼びかけです。
私たちは人生の中で、大切な人を失い、深い悲しみの中に置かれることがあります。心が空っぽになり、生きる力すら失われるような経験をしたことがあるかもしれません。それでもパウロは「光の子として生きなさい」と語るのです。
それは、キリストの光が、どんな闇の中にも差し込み、私たちに命を与えるからです。
「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです」(5:9)
ここでも「光」はキリストを意味します。キリストからは、善意・正義・真実といった命の実が生じるのです。それは、まるで光を浴びて元気を取り戻す植物のように、私たちもキリストの光によって新たな命を与えられる、ということです。
神ご自身が善意の源であり、神の御業はすべて正しく、神の真理は人間一人ひとりと誠実に向き合う姿として現れます。光なるキリストに出会い、神の恵みに照らされた私たちは、変えられていくのです。私たちもまた他者に善意を向け、正義を行い、真実をもって生きる者とされていきます。
「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(5:10)
この勧めは、キリスト者として日々の生活の中で、何が神に喜ばれるかを探し求め、選び取りなさいという意味です。私たちはしばしば何をするべきか迷い、誤った選択をしてしまいます。しかし、神が喜ばれることとは明白です。それは「善意と正義と真実」に生きることです。私たちは常にそこに心を向けて歩むよう招かれているのです。
「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい」(5:11)
私たちの人生の中には、「実を結ばない」努力や虚しい働きがあるかもしれません。しかし、光の子として歩む者は、そうした無意味な、あるいは有害な生き方に関わらないようにし、むしろそれらを「明るみに出す」ようにと勧められています。これは他人を責めるということではなく、自らの生き方を吟味し、誤りを認め、悔い改め、神の前に正直に生きるということです。
「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」(5:14)
この言葉は、今から2000年前にキリスト教会が始まった頃に、洗礼式の際に歌われていた讃美歌の一節とも言われています。つまりクリスチャンとして新しい人生を歩み始める人たちが聴いていた言葉を今日私たちは共に味わっています。クリスチャンになるということが、キリストに出会い、洗礼を受けて新しく生まれ変わる(新生)ことは、まさに死の眠りから目覚め、光の中に歩み出すことです。
ヨハネによる福音書の1章5節には「その光は闇の中にあって輝いている。闇はこの光を阻止できなかった」(小林訳)とあります。私たちはキリストという光によって闇に打ち勝つことができる。闇に引き摺り込まれることはないのです。これを信じるものは誰でも神の永遠の命を授かって生きることができます。
神は分け隔てのないお方です。以前私たちがどのような歩みをしていたとしてもすべての人をキリストの救いに招いてくださいます。私たちは光の子として歩むことができるのです。しかしそれは、すべてのことがうまくいく、すべて成功するというような短絡的なものではありません。光の中に生きると言っても私たちに見えている現実はいつもと変わりのない光景かもしれません。クリスチャンになった途端に神のお恵みが無尽蔵に注がれるというような絵に描いたようなものではないのです。光の子になった途端に立派な人間になるのとも違うのです。しかし、私たちは神によって、光の子とされた事実があるのです。神に愛される者として生まれ変わるのです。そして「善意と正義と真実」とは無縁だったような私たちは神の愛に応えていくものとなるのです。
13節からのところにはこうあります。「しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです」。キリストを通して神に愛される者は、暗闇の中でもそこで光を受けるということです。
キリストという光に照らされている者は、もはや闇に引きずり込まれることはありません。死も悲しみも、キリストの光の前には無力です。この光に照らされる者は、神の永遠の命に生きるのです。
この日本でたいへん長い間牧師として、また神学校の教師として活躍をされてきた先生がおられました。先年神の元にお帰りになりました。その先生の晩年、彼を苦しめたものは愛する妻を先に天に送ったということでした。そのお連れ合いは長い間がんと闘い何度も手術をされては懸命に生きておられました。
その先生の手記が残されています。
お連れ合いが亡くなられた時に、海外におられた神学大学の教授にメールを送られて、それに間も無く返信が来た時のことが克明に描かれています。
そのメールにはこう書かれてありました。
「愛する◯◯さん、悲しい知らせです、あなたは『妻が土曜日、午前10時、眠りに就いた』と書いてこられました。……がんの長い病苦は終わりました。神が眠らせてくださいました。神がお定めになった時、再びみ手にとられ、こう呼びかけてくださるためです。『起きなさい、◯◯、甦りの朝だよ!』と。……あなたに神の慰めが下りますように。あなたの血を流すような苦しみを癒してくださるために、神の慰めが来てくださいますように」。
この先生はその手記の中でこう続けておられます。
「永眠」は教会用語ではありません。キリスト者は永遠に眠ることはありません。私たちの眠りはすでに主によって呼び覚まされた者たちの眠りです。再び、起こしていただく日までの眠りです。「起きなさい。 甦りの朝だよ!」と一人ひとりの名を呼んでくださる朝までの眠りです。
その通りです。私たちが死んでも永遠に眠ったままではありません。神が再び呼び覚ましてくださるその日までの眠りです。『起きなさい。甦りの朝だよ!』と、一人ひとりの名を呼んでくださる朝まで、私たちは神の手の中で静かに休んでいるのです。
私たちの将来には、やがて死が待っています。恐れや不安を抱くこともあるでしょう。しかし、クリスチャンにとって死は終わりではありません。
それは神のもとへの「帰還」であり、「新しい命の始まり」です。キリストは死を超えて復活された方であり、そのキリストに結ばれた私たちもまた、復活の希望に生かされるのです。
キリスト教が語る「生と死」とは、私たち一人ひとりが神から与えられた使命を持って生まれ、その使命を果たし終えた時に神のもとに帰る、ということです。「使命」とは、文字通り「命を使う」と書きます。私たちがこの地上で命を使って成し遂げる役割があるのです。神はそれを見守り、やがてこう語りかけてくださいます。「あなたはよくやった。さあ、わたしのもとに帰ってきなさい」と。
今は亡き私たちの家族、友人、恩人たちは、すでに神の元で安らぎのうちにあるのです。やがて私たちもそこに帰る日が来ます。その再会の希望を胸に、今この地上で与えられている命を、悔いなく、光の子として歩んでまいりましょう。
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」
引用:『涙の夜 喜びの朝 受難・復活・聖霊降臨』(日本キリスト教団出版局)https://www.kyobunkwan.co.jp/xbook/archives/115620