エレミヤ書10:1-10a;ルカによる福音書24:44-53
神の力によってイエス・キリストは死から引き上げられ、この地上に40日の間とどまられました。そして再び神の力によって、今度は天に上げられました。キリスト教会ではこの出来事を記念して「昇天日」を祝います。本来はイースターから40日目にあたる木曜日、すなわち今年は5月29日に祝うところですが、キリスト教国でない多くの国々では、その次の日曜日に祝うことが多いようです。私たちの教会でも今日、主の昇天の記事に耳を傾けながら礼拝をささげています。
今日私たちが共に読んだ箇所は、ルカによる福音書の締めくくりにあたる部分です。この後、ルカ福音書の続編として使徒言行録があります。使徒言行録といえば、冒頭に聖霊降臨の出来事が記されており、それは来週の礼拝で共に聴きますが、今日の箇所での昇天の出来事は、まさにルカ福音書と使徒言行録をつなぐ場面であり、イエスの時代から使徒たちの時代へとバトンが渡される転換点なのです。
今日の箇所には、私たちが少し驚いてしまうような光景に出会います。それは、主イエスの弟子たちは、神によって天に上げられるイエスを仰ぎ見た後、52節に「大喜びでエルサレムに帰り」とある点です。普通ならどうでしょうか。愛し、尊敬してやまない先生が、今まさに地上での生涯を終えて天に帰ろうとしているというのに、「大喜び」などできるでしょうか。けれども、聖書はたしかにそう記しているのです。イエスの弟子たちにとって、師イエスとの別れは涙にくれるようなものではなかったのです! このような時にさえ彼らは大きな喜びに満ち、将来への希望をもって、堂々とその道を歩き始めたのです。
この一か月ほど前、復活のイエスがまだ弟子たちに姿を現す前、弟子たちはどうしていたかというと…ある者は絶望のあまり家に閉じこもり、鍵をかけて不安と悲しみに沈んでいました。別の者たちは、すべてを諦めて故郷に帰り、もとの漁師の仕事に戻っていたのではなかったでしょうか。しかし、今日の箇所の主イエスの昇天の場面においては明らかに彼らの様子が変わっているのです!
今日の箇所はとても短いながらも、主イエスが弟子たちに別れを告げ、天に上げられていく場面を描いています。現代に生きる私たちにとって、人が空に上がっていくという出来事はまるでおとぎ話のように感じられるかもしれません。特に宇宙にも行ける時代となった今、こうした描写はどこか非現実的に思えるかもしれません。
しかし、ここで私たちにとって大切なのは、この出来事を「物理的な現象」として受け取ることではなく、ルカ福音書がこの結びにおいて何を伝えようとしているかという点です。この福音書は、復活された主イエスが神のもとに帰られ、全世界を治めるお方となられたということを告げています。この記事は、歴史の中で確かに生きたイエスが、天の栄光のうちに上げられ、今度は聖霊を遣わすことによって、信じるすべての人と共に生きておられるということを私たちに伝えています。
この後、弟子たちを通して、福音はより多くの人々に広められていきます。つまり、イエスご自身が人々と共に歩んでくださる時代から、聖霊を通して共におられる時代へと移行したのです。私たちのもとにも、キリストは共におられ、共に歩んでくださいます。
51節には「(イエスが)天に上げられた」と記されています。「天」という言葉を私たちはどのように理解するでしょうか。聖書において「天」とは、単に空の彼方を指すだけではなく、人間が到達することのできない、神のご臨在の場を意味しています。目には見えず、私たちの理解を超えた世界、それが「天」です。そして主イエスは、今やその「神の世界」において、すべての人と共に歩んでくださるのです。
もしかすると、「神の世界」と言われても、何か遠くに行ってしまったように感じるかもしれません。しかし、そうではありません。使徒言行録1章6~11節にも昇天の場面が描かれており、そこには9節に「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」とあります。
この「雲」というモチーフは、旧約聖書でも神の臨在を示す象徴としてたびたび用いられます。たとえばノアの物語では、神が「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる」(創世記9章13節)と語られました。また、モーセに率いられた出エジプトの旅では、「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱で導き、夜は火の柱で照らされた」(出エジプト記13章21節)ともあります。さらに出エジプト記24章16節には「主は雲の中からモーセに呼びかけられた」とあります。つまり、神は雲を通して人々を導かれ、語りかけてこられたのです。
主イエスもまた、この雲に包まれて昇天されました。それは単に弟子たちの目から見えなくなったというだけでなく、神の臨在の中に迎え入れられたことを意味しています。そして、今やイエスは、聖霊を通して弟子たち一人ひとりと共におられるのです。
この主イエスの昇天は、地上でのイエスの働きが終わったことを意味すると同時に、弟子たちが新しい働きへと招かれた始まりでもありました。嘆き悲しんでいた者たち、尊敬する先生を失い絶望していた弟子たちにとっても、昇天は新しい出発であり、希望の始まりでありました。それは、主が天から彼らを守り、支えてくださるという信頼に満ちた出来事だったのです。冒頭に主イエスは「死から引き上げられた」とお話ししました。そして再び同じ神の力によって、今度は天に引き上げられたとも申しましたが、この「引き上げる」という言葉は、「捧げる」という意味を持つ言葉でもあります。私たちも礼拝を「捧げる」「献げ物をする」というような時に使う言葉です。つまり、私たちにとって神のひとり子、救い主として捧げられたイエスは、また地上から神のもとに「捧げられた」事実。それが昇天の出来事です。
私たちがたとえば、尊敬する先生や先輩、上司などから「あなたならできる」と期待されて、新しい務めを任されるとき、不安や緊張はあっても、その責任を光栄に思い、感謝しつつ踏み出そうとするのではないでしょうか。襟を正して奮起するようなそんな瞬間かもしれません。弟子たちも同じでした! この人たちもまた、主イエスの約束通り、この昇天から10日後、すなわちペンテコステに聖霊を受け、さらに力強く歩み始めていったのです。
そして現代に生きる私たちにも、主イエスは「神の国の福音を一人でも多くの人びとに伝えなさい」という使命を与えています。私たちは、イエスの教えを知り、信仰をもってイエスと交わり、十字架の死と復活を信じる者として、現代における弟子たちです。主イエスの愛と救いの福音を、まだ知らない多くの人々に伝えていかなければなりません。
今日の箇所で印象的な場面がもう一つあります。
50-51節「イエスは……手を上げて祝福された。そして祝福しながら……天に上げられた」と記されています。岩波訳やフランシスコ会訳の聖書は「両手を上げて」と訳されています。主イエスは両手を上げて弟子たちを祝福しました。主の両手には十字架の釘の跡が見えたことでしょう。痛々しい傷でした。癒されることが難しい深い傷だったでしょう。しかし主はそのみ腕をもって弟子たちを祝福したのです。最後の最後まで人を愛し抜かれた主イエスにふさわしい振る舞いでした。
主はご自分に代えられて、私たちに弁護者、助け主として聖霊を与えてくださいました。来る日曜日には、聖霊降臨を祝うペンテコステを迎えます。私たち一人ひとりに聖霊が与えられ、神の祝福が豊かに注がれます。この出来事を待ち望みつつ、信仰を新たにして、心を整えてこの一週間を過ごして参りましょう。