列王記上18:20-39;マタイによる福音書6:1-15
私たちが最も親しんでいる祈りはおそらく「主の祈り」ではないでしょうか。礼拝やさまざまな場面で祈った経験があるでしょう。毎日この祈りを捧げておられる方もいらっしゃるでしょう。この祈りは、世界共通です。どの教会の礼拝においても「主イエスが教えてくださった祈り」として祈られています。
しかし、キリスト教の歴史が始まったころの原始教会では必ずしもそうではありませんでした。洗礼を受けるための準備の学びを、時間をかけて行い、その最終段階で初めて口伝えにより教えられたのです。「天にまします……」とひそひそ声で、クリスチャンになるものだけが知ることを許された「秘密の祈り」でもありました。今はそうではありません。いつでも、どこでも祈られます。ですから私たちはこの祈りに、あまり有り難味も感じず、意味も深く考えずに祈っていることが多いのです。宗教改革者マルティン・ルターは「主の祈り」のことを「教会の最大の殉教者」とまで呼びました。
以前、礼拝説教の中で皆さんにお訊ねしたことがありました。この「主の祈り」に一番多く出てくる言葉は何でしょうかという問いです。『讃美歌21』の93−5には3つの主の祈りの邦訳が載っています。教会学校の子どもたちが使う『こどもさんびか』には、2000年にカトリック教会と聖公会が共同で訳した主の祈りが載せられていて4つあります。私たちは、明治期の1880年に訳された文語体の主の祈りに親しんでいます。普段祈っている言葉で一番多く用いられているのは「我ら」(新共同訳=わたしたち)という言葉です。
主の祈りはマタイ版とルカ版(11:2−4)がありますが、私たちが通常用いているのはマタイ版の祈りです。ここでは「我らの父よ」から始まり、二回目が「我らの日用の糧をあたえたまえ」。そして「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」に6回続けて出てきて、それから、「我らをこころみにあわせず」で6回出てきます。これは主が繰り返し心に留めてほしい願われた大切な事柄を示しています。
「主の祈り」は「私個人の祈り」ではなく、「私たちの祈り」すなわち共同の祈りです。しかし私たちは日常において、自分自身や、個人のことばかりに意識を向けがちです。主イエスが「主の祈り」で教えたかったことのひとつは、私たちが自分のことだけでなく、他者のことも考え、共に生きようといくことでした。「主の祈り」を祈るたびにそのことを思い出すように、と主イエスは伝ええられているのです。
プロテスタント教会では、印刷された祈祷書などを使うことは、ほとんどなく、その「自由祈祷」として、自らの言葉で祈ることが通例です。しかしそれが時として、「私が」「私のために…」といった自己中心的な祈りになってしまう可能性もあります。主イエスが「主の祈り」を口伝で教えてくださいました。私たちは時代を超えて現代の世界の中で、そして今ここで、心と声を合わせることによって主イエスの心と声に合わせていることにもなるのです。繰り返し申し上げますが「主の祈り」は「私」の祈りではない、「我らの、私たち」の祈りであることを念頭に置いて祈らなければなりません。主イエスはこの祈りの中で、自己中心から他者中心に変えられていくということを私たちに教えています。
今日は特に、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも、自分に負い目のある人を赦しましたように」(12節)という言葉に耳を傾けたいと思います。1880年訳の文語体では、「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」となっていますが、新共同訳では、私たち自身の罪の赦しを先に願っています。
ここから分かるのは、他者を赦す前に、自分が赦されることの必要性を自覚せよということです。他人の過ちに目を向ける前に、神の前にある自分の罪を思い起こすよう求められているのです。
「私たちが赦したから、神さま、赦してください」と祈ることは、赦しの条件として他者を赦すという意味ではありません。聖書に登場する物語を見ても、条件を満たしたから赦されたという例はほとんどありません。旧約の犠牲やいけにえによる贖いも、やがて否定されていきます。神は、私たちが神を忘れ、背を向けていても、先に愛し、赦しを宣言されるのです。
「負い目(負債)」という語は、経済的意味を含んだ言葉です。主イエスが話されたアラム語では、「罪」よりもこの語のほうが原語に近いとされています。つまり、字義通りに「借金を帳消しにする」ことを意味しているのです。私たちは、人に貸したことはよく覚えていても、人から借りたことは忘れがちです。赦された経験があるにもかかわらず、人を赦すことは難しい。なぜなのでしょうか。
あるクリスチャンの方は、「自分は人を赦せないのに、毎回この祈りを口にすることがもどかしい」とおっしゃっていました。このような声を私は一人や二人からではなく、多くの人から耳にしてきました。
なぜ、人を赦すことはこんなにも難しいのでしょうか。私自身もよく考えます。もし自分が犯罪被害者の立場に立ったら、こんなにも軽々と「赦します」と言えるだろうか、と。私たちは「主の祈り」を祈るたびに、心の底から「人を赦します」と言えるでしょうか。多くの場合、そうではないと思います。けれども、主イエスが教えてくださった祈りだからこそ、私たちはそれを祈るのです。
「赦す」ことは、簡単ではありません。しかし、絶対にできないことでもありません。なぜ、主イエスはこの祈りの中で「赦し合いなさい」と語られたのでしょうか。
第一に、人を赦さないでいると、苦しくなるのは自分自身だからです。
第二に、人を裁くのをやめるだけで、人は幸せになれるからです。
この世のすべては神の作品です。自分にとって苦手な人、嫌いな人がいたとしても、その人にも神の光は射しています。他人を赦せないとき、多くの人はこう言います。
「被害者は自分なのに、なぜ自分から赦さなければならないのか」。
「赦すと軽く見られるのではないか、また傷つけられるのではないか」。
「仕返ししたい気持ちが半分、忘れたい気持ちが半分」――。
主イエスは、そんな人間の恨みや苦しみをすべて引き受け、十字架の死を遂げられました。この世の闇の最も深い部分をも背負って、暴力の連鎖を「赦し」によって断ち切ろうとされました。
その祈りが、「主の祈り」なのです。
「主の祈り」を祈るとき、私たちは「私」ではなく「私たち」が「赦され、赦す」者へと変えられるよう、心を合わせて祈りましょう。