「共に喜び、共に泣く教会」ローマ12:9-18 中村吉基

レビ記19:9-10,23:22,申命記24:19;ローマの信徒への手紙12:9-18

先週私たちの教会では教会総会を開かれ、2025年度の宣教方針案が可決されました。宣教方針には毎年「年間聖句」が掲げられていますが、今年度の聖句として私たちに与えられた聖書の言葉は、ローマの信徒への手紙12章15節の「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」というものです。

ローマの信徒への手紙はパウロが第1章から第11章までに「福音とは何か」ということについて述べておりますが、この第12章からはその福音を享けて「福音にふさわしいキリスト者の生き方とは何か」ということに内容が転じています。私たちは2000年前に書かれたこの勧めを、今日私たちの教会に語られた神の言葉としてこれを読みたいと願います(注:ローマの信徒への手紙には現代の文脈にそぐわない記述があることは事実です。そのことを看過することのないようにしてここを読みたいと思います)。

まず9-13節では、教会内の「仲間」同士の間の、教会内の愛の関係について記されています。特に10-13節は一説に「愛の十戒」と呼ばれるところです。この短い箇所に10もの教えが含まれているのです。

1.兄弟愛をもって互いに愛し 2.尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。3.怠らず励み 4.霊に燃えて 5.主に仕えなさい。6.希望をもって喜び、7.苦難を耐え忍び 8.たゆまず祈りなさい。9.聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け 10.旅人をもてなすよう努めなさい。

最初に「兄弟愛」という言葉が出てきます。原語で「フィラデルフィア」と言います。信仰の自由を求めてアメリカに最初に渡ったピューリタンたちは、自分たちの街をこう名付けました。そして13節の最後には「旅人をもてなすよう努めなさい」とあります。これも「旅人を愛する」ということです。どういうことかといえば、この旅人も信仰の仲間たちでした。ほかの街の、外国のキリスト者がローマにやってきたときにそれを喜んで迎え入れる、ということです。同じ教会の仲間を愛する、そして教会は違えども同じ信仰に生きる仲間を愛するという2つの言葉に挟まれて、さまざまな愛の実践がここには記されています。「イエス・キリストの福音に生かされた私たちが、このような偽りのない愛の姿に生きようではありませんか」とパウロはローマの教会の人びとを励まし、書き記しているのです。

私たちもまた皆かつては「旅人」でした。神に導かれてそれぞれの「時」に私たちはこの教会に連なるものとされました。教会は旅人たちをもてなし歓迎してきましたが、ついに時が満ちて、一人また一人と教会の「仲間」になりました。私たちが教会に生きる「きょうだい」同士になるのです。きょうだいになったもの同士、今日の聖書の箇所が勧めているように、教会づくりに一丸となって進んで行くことができるのです。

「きょうだいとして互いに愛する」ことは麗しいことではありますけれども、そんなに簡単なことではありません。仲間となったのだから、きょうだいとなったのだから互いに優しくするのは当然のことでしょう。人間の集まりですから、常にスムースに行くことはなく、ぎくしゃくし、時には憎んだり、妬んだり、恨むこともあるかもしれません。そのような時に「愛の十戒」の2番目の言葉は教えてくれるのです。「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」。愛する――その人を大切に思うということは、その人をその人として認める、受け容れるということです。相手の値打ちをその人よりも先に自分自身が認めることなのです。私たちはたとえば、有名な大学を出た、大企業に勤めている、お金持ちだとか、名家の出だとか、そういう属性で人を判断してしまう誘惑に常にさらされています。しかし、キリストにあった「仲間」「きょうだい」となった者です。その時点で目に映るものだけで人の価値を判断することを捨てている者なのです。

しかし、「互いに尊敬をする」ことも、私たちがかなりの力を要することも事実です。それは熱心でないとできません。誰でも一度は信仰に熱心になることがあります。教会に燃えるような心で通うことがあります。ですが、それは長続きしません。すぐに醒めてしまうのです。そのような時にパウロは言うのです。11節「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい」。ですから私たちはいつも聖霊の助けを願わなくてはなりません。聖霊によっていつも私たちの心が燃えるように願うのです。その道のりには喜びあり、悲しみあり、山あり谷ありです。12節の「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」とはそのような勧めなのです。

13節「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい」。「聖なる者」とはキリストを信じる仲間のことです。洗礼を受けてキリストに結ばれたものをこう呼びます。「貧しさ」とは経済的なことなのか、あるいはもっと重大なことであるのか判りませんが、ここで大切なことは「自分のものとして」と言葉です。自分はまったく困っていないけれども、ゆとりがあるからそれで助けてあげよう…というのではないのです。「貧しさを自分のものとして」なのです。

私は今日の説教の準備をしていて、「自分のものとして」という箇所に惹きつけられました。この箇所の原語は「コイノーノス」という言葉です。これは「共にあずかる」という意味の言葉です。「聖餐にあずかる」というような時にも言葉を用います。この言葉は共同体の言葉の元の言葉でもあります。私たちの教会は「きょうだい(あるいは他者)の貧しさ、困難を自分のものとして受け容れる」教会でなければならないのです。

目の前に困っている人がいた時に、見過ごすわけにはいかない、助けずにはいられない――そのような姿は「旅人をもてなす」ということでありました。「ホテル」と「ホスピタル」は同じ語源の言葉ですが、聖書の時代、ホテル業などもなかったでしょうから旅人のために宿と食事を提供することが行われていたでしょう。今でもヨーロッパの宿のない地域に巡礼をする時など修道院や信徒の家にお世話になるということはあるようです。ここではその「旅人」に手厚く、懇ろに接しなさいということなのです。

さて、私たちの教会のこれからの一年の歩みを導く年間聖句である15節「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」は9節から読んできましたこの「愛を行いなさい」という文脈にあります。この言葉を私たちが聴くときにおのずとこのように思わないでしょうか。「たしかにその通りだと思う。しかし、あの人がわたしと一緒に喜んでくれたことがあるだろうか、この人だってそんなこと微塵も考えてくれたことがあるだろうか、教会の仲間が果たしてそんなことをしてくれるだろうか」という問いです。

私たちの弱さは、いつも何かをしてくれるのを待つ態度です。何か自分の利益になるのを待つ思いです。そうではなく「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」を私たちが行う者となるためにはどうしたらよいでしょうか。たしかに私たちにとってこの聖句を行うのは容易にできることではないかもしれません。たとえば自分と誰かが一緒に何かの試験を受けるとします。相手が合格し、自分が不合格だったという場合……このようなことはいくらでも考えられます。相手が幸福で、自分がそうでない場合、本当にその人の喜びを「自分のものとする」ことができるのでしょうか。反対に自分が喜びに満ち溢れている時、地に足が着かないくらい嬉しい時、同時に悲しみに打ちひしがれている人の悲しみを「自分のものとする」ことができるでしょうか。

もし主イエスがここに居られたならどうされるだろうか。私たちは主イエスに従う者として考えてみる必要があります。主イエスの目の前に喜ぶ者と悲しむものが居たならば、主イエスは泣く者の涙を自分の涙にして、寄り添ったのではないでしょうか。しかし主のように私たちはなかなかそれをすることができません。ですから主イエスの教えにいつも倣って歩んでいく必要があります。それが信仰(生活)です。なかなか実行できないから私たちは神を信じるのです。

狭い意味において教会に集う私たちが、日曜日の朝だけの付き合いをする仲間ではなく、本当に深い部分にまで喜びも悲しみも共有できる真の「仲間」に成長することを願って聖句があるのでしょう。しかし「宣教方針」にも記されてあるように、私たちはこの主日礼拝からこの世へと派遣されていきます。私たちと共に生きている周囲の人たちの喜びに、悲しみに寄り添うことができる私たちでありたいのです。それがキリスト者の「証し」となるのです。

神に喜ばれ、キリストと共に歩む私たちの教会は、一人ひとりの思いを共有することによって、喜びはより大きく、悲しみはより小さくされるように願います。それだけではありません。共に喜べば、その喜びは倍増します。共に悲しめばその人の悲しみは半減します。今日与えられた聖書の箇所では、14節に「迫害する者のために祝福を祈りなさい」。17節以下に「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と神から力を受けた私たちが、教会の外に向かって、悲しんでいる人、苦しんでいる人、病んでいる人の「友」になることが勧められています。私たちの友となられた主イエスがそのようにされたのです。私たちも喜んで従う者となりましょう。