創世記1:1-5,26-31;マタイによる福音書28:1-10
皆さん、イースターおめでとうございます。
ずっと以前のことになりますが、私宛てに一通のメールをいただきました。お名前を見ると私の存じ上げない方でした。その方のメールにはあるカトリックの司祭の死が告げられていました。以前私がその神父のことを説教の中で紹介させていただいたことがありました。メールをくださった方はおそらく神父のことをネットで検索していくうちにその文章を見つけられたのでしょう。メールの送り主は一生懸命にネット上で神父の足跡(そくせき)を辿られたのでした。
その当時の文章を紹介させていただきます。
私がとても大切にしている一本のビデオがあります。しかし、私はそのビデオの存在をしばらく忘れておりました。先日久しぶりにそのビデオが出てきました。それは3年ほど前にテレビで放映された根本昭雄神父のドキュメンタリー番組を収録したものでした。南アフリカ共和国のエイズの患者さんたちのためのホスピスで奉仕なさっているフランシスコ会の神父です。根本神父の働くホスピス――ヨハネスブルク郊外でカトリックのフランシスコ会が無料で運営している「聖フランシス・ケアセンター」でも3年で500人の人を見送ったということです。毎日のように自分がお世話をした人びとが死んでいく。根本神父は、施設内で暮らしなら1日3回、患者を巡回し、毎週1回、教会でミサ(礼拝)を行います。スキンシップを心がけ、患者の手を握り、抱擁します。日本で覚えたマッサージを施すこともあります。根本神父が忘れられない出来事があります。それは群馬県草津のハンセン病病院で、6年間勤めた後のお別れ会での出来事でした。患者さんの一人があいさつに立ちました。「神父さんありがとうございました。本当に神父さんは私達のためによく尽くしてくださった。ただ一つ淋しかったのは、神父さんは一度も私達と一緒にお風呂に入ってくださいませんでしたね」。根本神父はこれを聞いて大変ショックを受けました。その時「ああ、やっぱり患者さんとこの私の間には何か壁があったんだな」とそう気づかされたのだそうです。このショックを原体験として、根本神父は1991年から南アフリカで、そして2005年からはHIV感染者が増え続けているロシアに渡り奉仕をし続けておられます。その原点はハンセン病の患者さんの一言が胸に突き刺さったからです。「自分だけが打ち解けたつもりだった」と振り返りました。この経験を機に、ベトナム難民や日雇い労働者の支援など活動するようになったのでした。私はそのビデオを見るたびに神父にキリストのまなざしを感じるのです。(2006年に執筆)
根本神父は2008年に76歳で天に帰られました。私にメールをくださった方は関東地方の教会に属する方で、数年前に神父と知り合い、神父が帰国された折に開かれたチャリティー・コンサートでこの方の教会の聖歌隊が奉仕をされたりして交流が続いてきたとのことです。そして私が所蔵しておりました神父が出演されたテレビのドキュメンタリーの映像をぜひとも御覧になりたいということで、会いに来られたのでした。
今日私たちはイースターの朝を迎えました。十字架で死なれたイエス・キリストがそれから3日目の朝に神によって復活をさせられたということ、私たちに生きる力と新しい希望をくださったことを共に祝っています。先ほど共に聴きましたマタイによる福音書28章は、日曜日の朝早くに「マグダラのマリアのもうひとりのマリア」とが、主イエスの墓に行く場面から記事が描き始められます。洞穴(ほらあな)のようなところに死体は安置されるのが当時の慣わしでした。そしてそこには大きな石で蓋をして、主イエスの遺体が何者かによって持ち出されないようにしてあったといわれます。主イエスは死刑に処せられたのです。生前ご自身が3日目に復活をされることを告げられていましたから、死んだあともローマの兵士や祭司長らが遣わした見張りが大勢いたことでしょう。ですから主イエスに従っていた者たちが墓に近づくことは、弟子たち自身が捕らえられる危険性もありましたし、運よく墓に行くことができても主イエスの亡骸に対面することができたかどうかはわかりません。しかし、女性たちは早朝、遺体が収められていた墓に赴きました。
昨日私は大切な信仰の友の葬儀礼拝に行きました。かけがえのない友でしたが、3年ほど闘病して天に帰っていきました。訃報に接してから、もう早くそこへ駆け付けたくて仕方がありませんでした。そして今朝主イエスの甦りを祝っています。思えば以前イースターの2日前に亡くなった神学校の同級生がいました。私たちクラスメイトはイースターの朝の説教でこの牧師のことを触れられずにはいられませんでした。先週の礼拝に彼の娘さんが訪ねて来られました。もう18年も前のイースターだと言いました。でも昨日の葬儀も、18年前の葬儀でもなかなか心が晴れないでいる自分がいます。死を越えた主イエスにお委ねしているはずなのにどこか喪失感が残っています。
皆さんも近しい人であればあるほどいつまで経っても悲しみは尽きない。生きる気力が失われる。もう前へ進めない……そんな経験があるのではないでしょうか。「死」をきっかけに愛する人が別の世界に行ってしまった、と思うと何だかやりきれない思いがする。マグダラのマリアたちも主イエスが殺されてはじめてそう思ったのではないでしょうか。居ても立ってもいられなくなって彼女たちは主イエスのお墓まで来てしまった。私は以前メールをくださった青年にも同じものを感じます。見ず知らずの私の手元に根本神父の生前の映像がある。それを見ることができたら、という「熱心」。そう本当に心を熱くして東京まで来られたのではないかと思うのです。
墓まで来たマリアたちに福音が告げられました。主イエスが復活されたのだと。大きな地震が起こって、墓の蓋をしてあった石はわきへ転がされて、今度は、天使が稲妻のように、それだけではなく雪のように光り輝いていて、そしてそこを見張っていた番兵たちはもう卒倒してしまって、何だかとても慌ただしく場面が展開していきます(2-4節)。でもこの2人の女性はおそらく動じたり、ひるんだりしなかった。こういう時に人の強さが出ます。今日の箇所には出てきませんが、この時、男の弟子たちはどこかの家に入って鍵をかけて敵対者の目を欺こうとして肩を寄せながらびくびくしていた。女性の弟子たちは「強い」と言うよりは、愛するお方への「一途な思い」が彼女たちを駆り立てたのでしょう。神を信じていないローマの兵士は「死人のようになり」、逆に嘆き悲しんでいても神を信じていた女性たちはこの出来事をただ神の御心として受け容れたのでした。そしてそれだけではありません。8節をご覧ください。「恐れながらも大いに喜び」とあります。
もう心の底から湧き上がってくるのは悲しみではない、大きな喜びでした。そして「急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」。もうこうなったら、一目散に、一秒でも早く、今どこかの家に隠れているほかの弟子たちに伝えに行くのでした。マリアたちは何にそんなに喜んだのでしょうか。それは愛する主イエスに再び会えたからです。9節のところで主イエスがマリアたちに「おはよう」と言いました。福音書はこのように何気ない日常会話を記しています。でもこれが彼女たちの「大きな喜び」の源でした。復活をされたから何かどこかが変わってしまわれたのではない元通りの主イエスだから喜んだのです。同じ9節で、マリアたちが主イエスの足に抱きついています。これはマリアたちの目ではっきりと主イエスを認識できたという証拠です。やっと生前の主イエスが話されていた「復活」の意味が分かったのでしょう。それは言い換えれば「死は終わりではない」と言うことでした。今までどおり、主イエスの声を聞き、話ができ、手で触れ合って、心で優しさを感じることができる。これが「大きな喜び」なのです。
さてかつて根本神父が働いていた南アフリカのセンターでは毎日毎日、何人もの人が亡くなっていきました。神父は死に恐怖を感じる人を励まし、一緒に手をとって祈る。時には聖歌も歌うこともする。それでも亡くなる人はあとを絶ちません。神父自ら葬儀をすることもありました。自身が世話をしてきた人の葬儀をすることで、耐え難い悲しみを背負っておられたでしょう。打ちひしがれそうになられたこともあるでしょう。しかし、ある時根本神父はこう言いました。
「それでも朝は来る」。
復活のイエス・キリストは今日も私たちと共に、皆さんが悲しめば、一緒に悲しみ、涙を流せば、主イエスも涙を流されています。主イエスの復活の意味は「死は終わりではない」と言うことです。私たちは挫折したり、大きな困難にぶつかったりすると「もうだめだ」と思ってしまいます。しかしもうだめではない。それが終わりではない。スタートです。始まりです。誰の上にも神は太陽を昇らせてくださるお方です。みなさんが「終わり」だと思ったとき、「だめだ」と思ったときは神が力をくださる時です。神はまた新しい朝を与えてくださいます。そこで神が私たちの心と身体とを平安に包み込んでくださるのです。
主イエスのご復活の意味――それは私たちに希望を与えるためでした。
今日の箇所の最後にこのような主イエスの言葉があります。10節です。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。私たちが聖書を読むときに「ガリラヤ」という言葉は特定の場所を示すものではありません。私たちの身近にあって、見下され、周辺に追いやられた場所や人々のいるところを指すものであります。ガリラヤで日々の暮らしに追われる人々の間で、主イエスが示されたように、苦しみを分け合い、良いものを与え合い、はじき出されたものを迎え入れる生き方を、今度は主イエスに代わって私たちが再び実現した時に、復活の主イエスはいつもそこにいるのです。ですから主イエスのみ言葉はこのように読めるのではないでしょうか。「恐れることはない。言って私の兄弟たちに、その人のことを最も必要としている人々の所へ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。2000年の時を超えて、現代に生きる私たちにも、「私たちのガリラヤ」があるはずです。今朝ここから出かけていきましょう。そこに行けば、必ずそこで復活の主イエスは皆さんを待っていてくださいます。