「仕え合う者になるために」マタイ20:20-28 中村吉基

創世記25:29-34;マタイによる福音書20:20-28

先週は寒い日が続きましたが、ようやく春らしい日々になりました。新年度最初の礼拝をご一緒に捧げる恵みに感謝します。

春は入学シーズンでもあり、また新しい仕事に就いた方々もいらっしゃいます。この教会が属する東京教区西南支区でも何人もの牧師たちが新しい任地に赴いて行きましたし、また新たにこの支区にお迎えする牧師たちも今日最初の礼拝を捧げておられることと思います。牧師や伝道師が着任しますと、しかるべき時に就任式が行われます。たいていは教区の議長などが司式されますが、東京教区は200を超える教会・伝道所がありますので、5つの支区に別れて支区長が教区議長の代行をして就任式を執り行っています。この就任式の中で、(牧師の務めというのは)「神に仕え、人に仕えなさい」と式辞が述べられるのですが、キリスト教、あるいは聖書では「仕える」という言葉がよく出てきますし、私たちもよく耳にするところです。ちょっと調べてみたのですが、新共同訳聖書で194箇所出てきます。

キリスト教は「仕える」宗教であるといってもいいかもしれません。何か牧師や僧侶など指導者は「先生、先生」と言われ続け、何か人の上に立ってものを言って、偉そうに振る舞うのではなく、キリスト教では神の足元にお仕えし、イエスご自身が十字架に架かられる前に弟子たちの足を洗ったように、人に仕えていくことが求められているのです。

毎週の礼拝でマタイによる福音書に聴いています。今日の箇所には主イエスの弟子であったヤコブとヨハネが母親と一緒に登場します。そして主イエスが王座にお着きになるその時には、一番目と二番目の位に息子たちを就かせてくださいと頼むのです。実に人間的というか、欲望がありありと出ています。ヤコブとヨハネは前にもお話しましたがガリラヤの漁師の出身で主イエスの求めに応じてすぐに職も家族も残して従ったというとても素朴な信仰者でした。しかし、弟子たちの中でいつのまにか出世欲が芽生えてきて、そこに母親までが登場するという事態です。人は誰でも人の上に立とう、そして自分のことを認めさせ、人を動かそうとする欲望を持っていると言えます。こういう風に聞くと「いえいえ、私はそんな……」と思うかもしれませんけれども、今心の中でそう思った人のほうが危険だと感じてください。謙遜に見える人が実は人をぞんざいに扱っていたなどということはよくあるからです。信頼を持って接していた人に便利な道具のように扱われていたという経験をされたということはないでしょうか。でもそのことを恨むのではなく、自分が他人に対して、それと同じことをしてしまっていたのではないだろうか、あるいはしてしまうのではないかという思いを持つことが大切です。人間はとっても弱いものです。人に威張られているときには反感を感じるのに、自分が威張っているときにはそんなこと気にも留めないのです。

しかしそれで、人間は所詮、そんなものだ、ハイおしまい……というわけではない。主イエスは素晴らしい言葉を残してくださっています。26節の途中から読みましょう。

あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕(しもべ)になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。

確かにイエスの弟子のペトロは一番弟子でした。しかし弟子たちの間に序列があったとは聖書は告げていません。この後主イエスは23章11節で「あなたがたのうちで一番偉い人は、仕える者になりなさい」と言われています。つまり「皆の僕」になる必要がある。この時代の「僕(奴隷)」の一つの仕事は自分が仕えている家の家人や来客などの靴を脱がせて、足を洗うことでした。主イエスが最後の食事の場面で弟子たちの足を自ら洗うことをしました(ヨハネ13章)。神の子主イエスが、私たち人間を服従させるのではなく、私たちに仕えてくださるためにこの世界に来てくださった。天の清い、美しいところに主イエスは住まわれるのではなくて、この汚れて、醜い人間の欲望の渦巻いている世界に来てくださった。そして私たちの足を洗い、共に歩んでくださる、これが神の私たちに対する愛です。

そしてもっと驚くのは主イエスが、私たち人間を生かしてくださるということです。もしも、(ありえないことですが…)私が主イエスであったら、自分の弟子がこんな欲望に満ち溢れ、とんちんかんなことを言ってきたら弟子を破門したかもしれません。しかし主イエスはこのように仰せになります。少し戻りまして25節からです。

そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。」

もうすぐ主イエスは十字架に架けられるというのに、出世レースに興じる弟子たち、しかし世の支配者(ここではローマ皇帝を指しているとも考えられる)が人々を屈服させ、権力をふるって従わせているように、あなたたちはしてはいけない……と希望を持って弟子たちに語るのです。いろいろな人間がこの世界にはいる中で、主イエスは失望せずに真剣にこのことを伝えられておられることは私たちにとって大きな希望と言えます。主イエスによれば異邦人たちは神の国と神の義を求めることなく、この世的な、目に見える物質的なものを享受することばかりを求めていました。それに対して主は「そうであってはならない」と言われたのです。

私たちにとっての「仕える」ということはどういうことでしょうか。ある辞書には「そばにいて、利害を考えずにつくすこと」とあります。私たちに何も出来なくても「そばにいく」ということは出来るはずです。たとえば家族や好きな人と一緒にいるとき、なにか「仕えよう」として接するのではなくて、自然に「疲れているのかな」とか「なにか食べたいのかな」という意志を感じ取ることが出来るでしょう。そして「利害を考えずにつくす」たとえば皆さんは教会のことを一生懸命やってくださる。礼拝で奉仕することに教会から毎週報酬を支払っていたら、これは奉仕ではなくなってしまう。ただの労働になります。しかし、教会というところは皆が力を出し合って神の教会、神の家族を作り上げていく、そういうところです。

また、「仕える」のもともとの意味には「御用を(しっかりと)聞く」という意味があります。仕えることは相手に耳を傾けることから始まるのですね。それだけではなく、神に「聞く」のです。神に聞き従うのです。私たちはそのことを忘れがちです、普段の生活の中で、祈り、聖書を読み、そして人々と出会い、関わる中で神のみ声に聞くのです。

ある企業のキリスト者の社長の持論は「社長は現場が働きやすい環境を整える奉仕者に徹すべきだ」というものです。これを「サーバント・リーダーシップ」と呼びます。社員一人一人が能力を最大限に発揮することができるようにする環境を整える。従来の社長を頂点としたピラミッド型組織においては、お客さんが一番下にいるのではおかしいのではないかと思ったそうです。ある時、ピラミッドを逆にすることを思いつき、「逆ピラミッド型組織」の心を経営の中心に据え、実践しました。そこでは、社長が一番下で全社員を支えるのです。

この新年度の最初の礼拝、今日の福音の言葉を一人一人心に刻みましょう。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」という主イエスの言葉。「奉仕と献身」の精神でサーバント(仕える者)に徹するのです。これは私たちも私たちの教会にも肝に銘じるべきことです。わたしたちが上でふんぞり返っているようでは、これから先、何も生み出されないのではないでしょうか。
皆に仕える者になり、皆の僕になりなさい。