申命記35:15-20;マタイによる福音書4:1-11
先週の水曜日、教会では灰の水曜日と呼ばれる日から受難節(レント)が始まりました。受難節は四旬節ともいいますが、この「四旬」とは「40」という意味です。「旬」というのは、よく上旬、中旬、下旬と言うように10日間を表します。それが4つだから「40」。40日間の期節です。
聖書の中には「40」という数字は象徴的な数字としてよく出てきます。ノアの(箱舟)洪水が40日40夜続いたとあります。モーセはシナイ山に40日とどまり十戒を神から授けられました。エジプトで奴隷になっていた神の民は荒れ野を40年進みました。エリヤはホレブ山に40日かけて登りました。そして今日の福音にある主イエスは40日40夜、荒れ野で過ごしました。
灰の水曜日からイースターの前の日まで40日間。計算の得意な人はちょっとおかしいことに気がつくかもしれません。今年の灰の水曜日は3月5日、イースターは4月20日です。その前の土曜日まで46日間あります。6日間余りあるわけです。レントの日の数え方は6回の日曜日を除いて40日です。ではなぜ日曜を除くのかと言いますと、これは私たちが毎週日曜日に礼拝していることと関係があります。それはイエス・キリストが十字架にお架かりになって3日目に復活したのが日曜日だったからです。ユダヤ教は安息日が土曜日です。その日に礼拝をします。しかし、初代のキリスト者たちは日曜日に集まってパンを裂いていました(これは今日の聖餐の原型となるものです)。ですから日曜日はいつでも「ミニ・イースター」です。主イエスの復活を祝って礼拝しています。私たちは毎週、復活の主を礼拝しているのです。
受難節という期節は、イエス・キリストが十字架の死に至る道行きを憶え、主の苦難をしのびつつ、悔い改めながら過ごす期間です。古来から教会ではイースターに洗礼を受ける人が40日間の準備期間を持ったり、大きな罪を犯して、教会から遠ざけられていた人が悔い改めて、ふたたび教会の交わりに加えられるのを待つ備えの期間の期間でした。言ってみれば教会の「喪」に服する期節であるといえます。しかし、主イエスはひとたび死なれて、はい、それでおしまいというわけではなく、人間の初穂としてよみがえられました。私たちは悲しみの果てに、喜びに変えられるという希望があります。ちなみに受難節の色は紫です。気を引き締めて、普段の生活の中で罪と闘いつつ自らを省みたいものです。特にこの時期は節制をします。私も毎年、甘いものを食べないとか、お酒を飲まないとか好きなものをイースターまで断つというようなことをしています。キリスト教国では受難節に肉食を断つ習慣があります。今ではその規制も大分緩んできましたけれど、ですからある国では灰の水曜日の前に謝肉祭(カーニバル)なんてやってドンチャン騒ぎをします。キリスト教とは関係のないドンチャン騒ぎですけれど、そういう国でも受難節は静かに過ごす時なのです。
今日の箇所は「さて」という言葉から始まっています。何が「さて」なのか、1月の2週目に「主の洗礼」を祝いましたけれど、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けて荒れ野に行き、40日間断食をするという流れでマタイ福音書には書かれています。40日も断食をすると主イエスであっても飢えを感じられました。今日の記事には主イエスがこの荒れ野で悪魔から3回の誘惑を受けるということが書かれています。この3回の誘惑は、人間として忘れてはならない大切なことが書かれてあります。
まず3 節です。
すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。
悪魔は主イエスが「神の子」であるのなら、石をパンに変えるように誘惑します。これは自分が生きるためだったら神との関わりを捨てて、パン(物)に頼れ、と言うのです。しかし主イエスはきっぱりといいました。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
神の力を自分の利益のために使うのではなく、神が私たちに語りかけてくださる言葉に委ねなさい、と主イエスは言われました。
2つ目の誘惑です。5節、
次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。……」。イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
主イエスが十字架にお架かりになったときに、人々が「神の子なら自分を救って見ろ」とののしった言葉を思い起こさせるような悪魔のささやきです。しかし主イエスは神を試すようなことはなさいせんでした。
3つ目の誘惑です。8節
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。
「世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて」もし悪魔のことを拝むならば、これをみんな与えようと言うのです。まるで馬の前に人参を吊って走らせるような手口です。しかし、主イエスは「退け、サタン」と言ってこれを拒むのです。
今日の箇所を読むときに、旧約聖書にある出エジプトの物語を思い起こします。エジプトで奴隷となってイスラエルの人々がモーセに導かれてエジプトを脱出して40年もの間、荒れ野を進んで神の約束されたカナンの地に行くまでに体験したことが。まさに主イエスが受けられた3つの誘惑にあてはまるのです。
まずイスラエルの人々はエジプトを脱出してからすぐに食べ物に飢え、エジプトの肉なべを思い出します。エジプトでは奴隷の身分であった彼らも食べ物だけは保証されていましたからすぐに不平不満を言い出しました。そして生活が保証されるならどんなに惨めでもいい……人間というのは極限状態になると何をしでかすか分かりませんよね。自分の良心を売っても構わないというように悪に手を染めます。
主イエスは「人はパンだけで生きるものではない」と申命記にある言葉で答えられました。(そういえば昔、「人はパンだけではなく、ご飯も食べなきゃ生きられない」と言った人がいましたが、そういう意味ではなく)空腹に堪えながらも心はいつも神に向けていなさいということを言われたのです。
第2の誘惑はその後、彼らが荒れ野の奥に行ったときにどこを見ても砂と岩だらけの生活できない土地を見て、本当に神がいるのだろうかと疑いはじめたのです。
私たちも人生に行き詰まると「神も仏もあったものではない」というように、もし、自分を支えているものが存在するならば今すぐ奇跡でも起こしてくれと言わんばかりに甘える性質があります。また、何か願い事を叶えてくれれば神を信じてもいいという人がいます。主イエスが「神を試してはならない」と言われたのは、たとえ何の支えも感じられないようなときにも神は働いて私たちを倒れないように支えてくださる。神に希望を持って生きるということを教えられたのです。
第3の誘惑はイスラエルの人々がシナイ山のふもとに来たときに鋳物で出来た子牛の神を作ってそれを礼拝し始めたことでした。この子牛の神は人々に繁栄をもたらす神とされていました。人間の手で神を作ることは出来ません。また人間はいわゆる「ご利益」が好きです。幸福になるならばどんなことでもやろうとします。また簡単に幸せを手に入れることにしがみついてゆく性質があります。今こそ、私たちの心の中にあるサタンに向かって「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ」と誰もが言わなくてはならないでしょう。
人間というのは弱い存在です。自分自身の中に誘惑に打ち勝つ力を持っていないのです。しかし、唯一これに打ち勝つ力があります。それは私たちがイエス・キリストと結ばれて生きるならば、すべての誘惑に打ち勝つことが出来ます。この受難節の間に私たちが誘惑に負けないように、悪と戦い、イースターには復活された主イエスとともに勝利の喜びを噛み締めたいと思います。
先週の灰の水曜日には、朝と夕に礼拝を捧げました。その中で「灰の式」を持ちました。これは昨年の棕梠の主日の礼拝で用いた棕梠の葉を燃やして灰にしたものです。「あなたはちりであり、ちりに返って行くのです。回心して福音を信じなさい」という言葉と共にこれを各自の額に塗っていきます。創世記には私たち人間は土のちりで神によって造られたとあります。私たちは本当に小さく、弱いものであると身を低くしてこの受難節を歩んでいきましょう。
礼拝後、灰の水曜日にこの灰をお受けにならなかった方に灰の式を執り行います。