「価値と使命を映し出す場所」ヨハネ9:1-7 佐原光児

詩編118:22-25;ヨハネによる福音書9:1-7

今日の箇所は目の見えない人とイエスの出会いの物語です。イエスと出会って見えるようになった奇跡物語になりますが、わたしはここに人の生き方や視点に関わる重要なことが示されていると考えています。

まず確認しておきたいことは、イエスが生きていた時代、特定の病気や障がいは何か悪いことをした神の罰だと考えられていたことです。この場面で弟子たちの「この人の目が見えないのは本人が悪いのですか。それとも両親ですか」という問いは、当時、当たり前であった価値観を反映しています。

しかしイエスの返答は当時の考えとは全く異なるものでした。人が抱える障がいは本人や両親のせいではないと明確に否定した上で、この人の経験の中から、これまでの苦境の中から神の業が現れると宣言したのです。「これが悪かったから、この人は苦しむ」という過去ではなく、イエスはこの人の体験と背負う厳しさの中からも生まれていく出来事「未来」について語ろうとします。

ここにカルトとの大きな違いがあります。カルトは往々にして不幸をその人の過去や先祖に結びつけます。過去は変えられません。だからわたしたちは激しく後悔し、過去に強く捕われることがあります。霊感商法やスピリチュアル商法では人を強烈に過去に縛りつけ、また放置するともっと酷くなると不安にさせた上で、過去を変えるために教祖の念の入った高価な品物を購入させます。これはかなり飛躍した論理ですが、普段なら鼻で笑うようなことも、強烈な不安と恐れの中では簡単に受け入れてしまう、そうした心理的な弱さを誰もが持っており、カルトはこれを利用しようとします。しかし、イエスは過去ではなく、神がご覧になっているこの人の「これから」を問題にしたのです。

イエスは目の見えない人の目に泥を塗って「シロアム」という池で洗うよう言いました。すると聖書は短く、この人が見えるようになったと報告します。通常は視力が回復したという意味です。しかし最初に言いましたように、わたしはここに、もう少し異なる意味を併せてみたいのです。

シロアムはわざわざ「遣わされた者」という意味だと説明されています。「遣わされる」とはどういうことでしょう。それはその人に役割や使命が与えられている時です。つまり、ここで目が見えるようになったということは、神が自分をこの世界に神が遣わしたこと、そこに付与された使命や存在の価値が見えるようになったということでしょう。当時の価値観の中で苦しんで当然の無価値な存在とされた人が、神からの使命と自らの価値が「みえる」ようになるのです。だから今日の箇所は尊厳と存在価値の物語です。そして使命や存在価値は障がいや病の有無に関わらず、わたしたち一人ひとりにとって重要な課題だと思うのです。

わたしは、教会やキリスト教主義学校はイエスが「ここで洗いなさい」と示したシロアムであってほしいと願っています。神を中心とする皆さんの繋がりはシロアムなのです。そこで自分の価値と使命を改めて受け取るのです。そしてその繋がりは、次に新しくやってきた人の価値を映し出す場所(シロアム)になっていくのです。