士師記13:6-7;マルコによる福音書1:21-28
現代を生きる人々の間に今やインターネットは欠かせない。どんな距離でも人と繋がることができるネット社会。その反面、匿名性の高いコミュニケーションは心無い言葉の応酬にもなりがちである。ネット上でひとたびバッシングが始まると大変な集団性が発揮され、個人に対する言葉のリンチともなり得るのは周知の通りである。
そんな社会で育ってきた若者らを見ると、言葉の応酬自体をしない人が増えていると感じる。つまり「いいね」しか要らない。肯定意見だけが聞きたい。そうでないものは削除して即ブロックだ。ブロックとは特定の相手との連絡を遮断してしまうSNS上の機能である。ネット上でも実生活においても、こうした人間関係の持ち方で心の平安を保つのが賢明な過ごし方であるらしい。
それは不十分なコミュニケーションであると客観的には見える。本当に自分を思ってくれる人ほど厳しい意見をくれるものでもあり、怒る時も悲しむ時も気まずい時をも重ねて、深い関係というものはできていく。が、SNSに重心のある人間関係はそこに至らない。意に沿わぬ事があれば切れば終わるのだから。
今日の箇所、「かまわないでくれ」という悪霊の叫びが、なぜか現代の情報社会にも響いているように感じられる。
汚れた霊に取り憑かれた男に対してイエスが言葉だけでその霊を追い出すという話、同じ形式はマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に、合計5回現れる。イエスが悪霊を祓う典型的伝承が元にあって、その伝承に前後の文脈が合わせることで各記事の意図を付与されているものと思われる。
古来多くの病や障がい、伝染病が、悪霊のしわざによるものとして理解されていたが、これは聖書の世界に限らない。科学的な医療が普及するまでは、どの国どの地域においてもある程度共通した認識だった。今現在ですらも、医療が万人に届く国ばかりではない。そうした国々では病と悪霊の関係は人々にとって肌身に近い事柄であり、私たちの立つところからそんなものは迷信や幻だなどと言ってみても、何ら説得力を持たない。
今日の箇所において悪霊祓いと癒しのわざは、イエス個人の権威を強調する効果をもって、この文脈に置かれていると考えられる。ユダヤ教の中で権威を持ったのは言わずもがなの律法学者だったが、彼らが揉め事に対する裁きを行う際には、必ず法に触れてその解釈を解き、その権威を借りて審判を下さねばならなかった。モーセのもたらした十戒に基づく律法、神聖なるトーラーこそ至上の権威だったのだ。
しかしイエスの言葉には、そうした権威に依らない力があった。教えを軽んじるわけではなく、まるで彼自身の思いを語るかのように律法の釈義を語り、またそこには会衆が味わったことのない力が感じられたとある。このようにして、福音書の序盤からイエスという人物の正体が具体化されてゆくのだった。
「聖者」とは何であったか。旧約聖書からは士師記の13章より士師サムソンが母の胎に宿った場面を引用したが、ここにある「ナジル人」という言葉が「聖者」という語の同義のヘブライ語である。すなわち聖者とは神にささげられるための存在であり、一切の汚れを負わず全く聖い命だと考えられる。
その本質をいちはやく見抜いたのは、件の汚れた霊に取り憑かれた人であった。なぜ彼だけがイエスの正体を知ることができたのか。
この伝承に使われている、またこのパターンの物語で必ず叫ばれる「かまわないでくれ」と訳されている言葉については、原語に忠実に訳すると、「あなたと私は関係がない」という意味に近いという。関係がないという断言による拒絶。それはこの悪霊が叫んだ言葉か、取り憑かれた男が叫んだものなのか。
ブロックして終わり、という現代人の関係性について、この言葉を聞く時にやはり思い起こされる。かまわないでくれ。自分はこのままでいいのだから。平穏を壊さないでくれ。受け入れてくれないなら、関わるな。この男が叫んでいることもネット上で人々が叫んでいることも、同質なのである。しかし彼は、あるいは彼ら彼女らはそもそも矛盾している。関わりを求めないならなぜ会堂に来ているのか、なぜネット上で発信を続けるのか。そして本当に関わりたくないなら、なぜ大声で叫んで注意を引くのか。
おそらく、真っ当な関わりを素直に求めるには、彼は傷つきすぎていたのだろう。ここに至るまでに自尊心をズタズタにされてきた。彼の何が人と違ったのだろうか。何の病があったのか、何かの障害や、外見的なハンデがあったのか。現代社会に至っては、何の理由もなく虐めの対象にされることもある。聖書の時代と現代、どちらが生きやすいとも言えないのかもしれない。
汚れた霊とは何だったのか。その字面から連想されるような、幽霊のような実体のない存在か、悪魔的な恐ろしい何かなのか。一つの解釈として、「かまわないでくれ」という言葉自体が彼の存在を冒していたのではないだろうか。
おまえとは何の関わりもない、という拒絶の言葉は、彼自身が助けを必要としていた時に他者から何度も向けられてきた言葉ではなかったか。その言葉は傷になって内側で膿んでゆき、積み重ねられ、彼自身の意志や希望を奪い、ついには自分から他者を拒むようにさせたのではなかったか。
汚れた霊の逆を考えてみれば、聖い霊、聖霊である。それは主なる神がこの世に力を及ぼす媒介である、と捉えられてきた。そして私たちの神はその本質がロゴス、言葉である。であれば汚れた霊とは、彼が叫ぶ拒絶の言葉そのものであるとしても、あながち的外れではないだろう。世の汚れた霊、人の心無い言葉を呪いとして刻み込まれ背負い続けた彼は、主イエスの言葉によってのみ救われ、浄められて、解放されることができた。そう考えると腑に落ちるものがある。
恐るべきは、人の人生を狂わせてしまうほどの汚れた霊。それを生み出し得るのは、架空の悪魔などではなく、他でもない私たちの口であることを、決して忘れてはならない。
誰しも人からかけられた言葉で忘れられないものがあるはずだ。良いものも、悪いものも。形のない、記憶にしか留まらない、言葉というもの。それは時にいつまでも人の胸に居座り、悪いものであれば、その人にとって強い呪いになり得る。多くの人が心無い言葉を投げれば、人は死にさえ至る。言葉は恐ろしい力を持ち得るものである。だからこそ私たちは何度も何度も御言葉に立ち返り、ともすれば呪いを生み出しそうな自分を戒めなければならないのだ。
おまえには関係ないと誰かに拒絶されれば私たちも怯み、心が揺らぐ。しかし冷静さを失って酷い言葉を投げ合うような関係を作ってはならない。御言葉に生きる民として、温かい言葉を人にかけたい。たとえ言葉の刃で傷つけられても、心ある言葉に徹したい。私たちは主のように一言で呪いを祓うことはできない。拒絶する人に言葉をかけ続けるのは、気の長い努力と忍耐を要する地道な作業だ。挫けそうにもなるが、そんな時は、私たちも誰かから労いの言葉をもらって力を繋いでゆけばいい。
人は言葉を使う生き物である。主なる神の本質たるその力を、僅かずつながらも預けられている身なのだ。であれば人を生かすためにこそ、言葉の力を使うことができるように。気にかけあい、労わりあい、声をかけあって共にゆくことこそ、主の道の本懐なのではないだろうか。