列王記下5:1-14;マタイによる福音書15:21-31
アメリカの聖公会の礼拝に何度か出席したことがあります。礼拝の司式者が「主の祈り」を共に祈り際に、このように会衆に呼びかけます。
「救い主キリストが教えられたように、大胆に祈りましょう」
私たちが祈るときには「大胆に(bold)」祈ることが求められています。果たしてそうなっているでしょうか。時にはヒソヒソと、ある時はコソコソと、またある時はショボショボと祈ってはいないでしょうか。祈りはオロオロ祈るものでもありませんし、ハラハラしても、ドキドキしてもダメです。はたで聞いていて胃がシクシク痛むような祈り、ああ祈ったかと思えば、このこともクドクドと祈る。フラフラしていてもダメです。
今日の箇所に出てくるカナンの女性の祈りは「悪霊に苦しめられている娘を癒してほしい」というものでした。当時は悪霊が病気を引き起こすと考えられていました。この女性の娘の病気がどんな病気なのかは判りませんが、その願いは必死であることは間違いありません。親が子どものために必死に祈ること、よく判ります。切羽詰った祈りです。
けれども、なぜでしょうか。主イエスの振る舞いはとても冷たい態度に感じられます。私は23節以下の言葉がとても気になります。
しかし、イエスは何もお答えにならなかった。
弟子たちは主イエスにこう言いました。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった」。
このことを読み解く前に最初の21節からを読んでみましょう。
「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ」。
主イエスは神の国を宣べ伝えるために、ガリラヤ地方をめぐってユダヤ(イスラエル)人に教えておられました。しかしながらファリサイ派や宗教指導者たちからの反発を受け、一旦イスラエル人の住む地方を離れて、異邦人(外国人)の住む地方へとやってきます。ここに出てくるティルスとシドン(新共同訳聖書巻末 の地図「6.新約時代のパレスチナ」参照)というのはその異邦人の地方でした。そしてこの地方の出身であるカナンの女と出会うのです。このカナンのギリシャ名がフェニキアです。カナン人は以前イスラエルに偶像崇拝の悪習をもたらした異教の民として、イスラエルから決してかかわりを持ってはいけないと差別されていた民でした。
彼女は「主イエス、ダビデの子よ、私を憐れんでください」と主イエスに全幅の信頼を寄せて言います。とても大胆な祈りです。皆さんは「キリエ・エレイソン」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。『讃美歌21』でも30番代にいくつもキリエの曲が収録されています。このキリエは、ギリシア語をラテン語読みしたものですが、まさにこのカナンの女が22節で「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と言っているのは「キリエ・エレイソン」と言っているのです。こんにちすべてのキリスト教会の礼拝式文、祈祷書、賛美歌などに「主よ、憐れみたまえ」という祈りの言葉を共通の財産として持っております。
ところが主イエスのカナンの女性に対する答えは、まるで人種的な偏見をあらわにするように聞こえてきます。24節には「イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった」。まるで外国人には救いはない、と言わんばかりです。そして彼女の苦しい訴えを無視しようとさえされているようで、ここを読む私たちは穏やかに読むことができないのではないでしょうか。
弟子たちは彼女を追い払おうとします。しかし25節で彼女は主イエスの前にひれ伏すように言います。「主イエス、どうかお助けください」。これに主イエスは「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われました。つまり子どもたちというのは「イスラエルの民」、小犬というのは「外国人」。イスラエルの人々の救いを外国人に授けるわけにはいかない、とはっきりと拒絶するのです。
しかしそれでもカナンの女性はめげることはありませんでした。今、もし皆さんが主イエスにこんなことを言われたらどんな気持ちがするでしょうか。望みが絶たれてどん底に落ちるような気分になるのではないでしょうか。しかし、彼女は決して引き下がろうとはしません。「あきらめない」のです。主イエスの言葉を取って返し、たしかに自分は小犬かもしれない、しかし小犬だって食卓から落ちるパン屑はいただくのです。と言い切りました。
主イエスは彼女をユダヤ人の中にもいなかった強靭な信仰の持ち主であることを知り、心を動かされ、大いに賛辞を与えるのです。そして即座に彼女の祈りは聞き入れられました。
神はすべての人の救いを望んでおられます。ですからユダヤ人はいいけれど、外国人はダメだ、というような差別はありません。ただ、神は救いを具体的な出来事とするために、ある特定の時代と場所と民を必要とされました。すべての人の救いをお望みになる神によって選ばれたのは弱く、小さなユダヤの国の人たちでした。
イザヤ書の56章の6,7節にこう書いてあります(新共同訳ヘブライ語聖書1154頁)。
また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
神の救いはユダヤ人に留まらず、異邦人(外国人)にも向けられることは、イザヤの時代から知られていました。それはまずユダヤの救いが実現してから起こることになっていました。また主イエスが復活をさせられ、昇天されたのち聖霊が与えられ、教会の基礎となる共同体が築かれて、すべての国の、すべての人に救いが広げられていったのをご存知だと思います。主イエスは決して外国人に敵意を持っているのではありません。ただ神の救いの計画に忠実に振る舞っているのです。
私たちは、カナンの女性の見事なまでの信仰に倣う者となりたいと願います。私たちは自分が苦しいときには、神が祈りを聞いてくださらず、無視されているような気持ちにならないでしょうか。あるいは自分の祈りが退けられたと勝手に思い込んではいないでしょうか。しかしそれでこの祈りをあきらめてしまって引き下がっていれば、その祈りはその時点で終わりになります。しかしあきらめない祈りは希望となります。「希望は失望に終わらない」(希望は欺かない)(ローマ5:5 口語訳)とパウロは言いました。希望を持った祈りは必ず聞き入れられ、何らかの形で実現するでしょう。
私たちは今ここで幸いにもご一緒に礼拝をささげています。しかし、一歩教会を出れば、それぞれのされている仕事などは違いますし、また皆さんそれぞれ今、課題としていることも違うことと思います。しかし、私たちは、挫折をしたときにそこであきらめてしまって、今まで来た道を戻っていくのではなく、ここというときにあきらめないで前進していく、そこに希望が必ず与えられるのです。私たちの神は打出の小槌を振るように、問題の解決を与えてはくれません。私たちがそれぞれ、「あきらめない」祈りを捧げ、「あきらめない」希望を持つときに必ず神は風穴を開けてくださるのです。私たちの前に立ちはだかる問題のなかには、ろうそくの日がその蝋を溶かしていくように本当に時間がかかり、根気を要するものもあるかもしれません。しかし、私たちはそこで引き下がるのではなく、食い下がらなければいけないのです。
祈りとは、意固地になることではありません。大胆に祈るものです。私たちもカナンの女の言葉を借りて、神のみ名を呼び求めましょう。
「主よ、わたしを、憐れんでください」。
そうすれば必ず私たちの祈りの生活は変えられます。そしてその時、どこかで何かが変わるはずなのです。