創世記2:18-25;マタイによる福音書2:13-23
今年の最初の礼拝をご一緒に捧げる恵みに感謝します。この礼拝に参列されておられるお一人お一人に神さまの恵みが豊かにありますようにと願います。
私たちはクリスマスを喜びのうちに祝い、キリストの光の中で、降誕節を過ごしてきました。けれども、今日の箇所では生まれたばかりのイエスにヘロデ王の迫害の手が及んできたことを伝えています。そしてヨセフはイエスとマリアとを連れて、エジプトに避難するのです。やがてヘロデが亡くなりますが、その息子が跡を継ぎます。ヘロデの息子アルケラオの支配が及ぶユダヤ地方を避けて、ヨセフの一家はガリラヤのナザレに住まいを定めます。ヨセフはどんな思いで幼子を守り抜いたのでしょうか。
マタイによる福音書はエジプトから再びイスラエルに帰ったイエスを、あの出エジプトの出来事に重ね合わせています。人々を救うためにイスラエルに帰られたイエスでした。この幼子はやがて30歳ごろになると、抑圧された小さき人々を解放するために宣教活動に入りました。今日の箇所は、福音書の中ではクリスマスの物語に隠れて一見地味なストーリー展開かもしれませんが、実はイエスさまの生涯を振り返る時、とても重要な出来事でもあるのです。もしもヘロデによってイエスが殺されていたならば、神の国の福音は人間に伝えられることがなかったからです。私たちの信仰の言葉でこれを「摂理」といいます。まさしく神さまの御計らいです。
そして私たちの人生にも神の摂理があらわされます。私たちの人生の道も神が私たちを危険から守り、約束された地へと導いてくださるのです。今日、ここでは特にヨセフとマリアの行動から神の摂理について学びたいと願います。まずヨセフに注目することは、神さまの声に忠実に聞き従ったということです。私たちならどうでしょう。心に響いてくるのは神さまの声なのか、自分の声なのか判らないまま、判断ができず、迷いに迷うこともあるでしょう。私たちは神ではありません。判断を誤ることは常に待ち受けていることです。それを恐れていては何もできないでしょう。しかしヨセフとマリアとは神の声を第一とする信仰生活を送っていたと言えます。そしてイエスの殺害を免れ、この危機を二人で乗り越えて行くことができました。
私はこのヨセフとマリアの行動を見る時に、神さまがお造りになった最初の人間、アダムとエバを重ね合わせてみます。天地創造の最後に人間をお造りになった神さまのお気持ちはいかばかりであったでしょう。いのちの息を吹きいれられた人間に込められた神さまの思いが、時を経て、イエスの父母となったヨセフとマリアに受け継がれているのです。
今日、最初に共に聴きました創世記2章18節にはこのように記されてあります。
主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
これは人間の限界を指してこう言っています。つまり、人間が一人でいては、人生を豊かにすることができない、充実できないのです。そこで神さまは「彼に合う助ける者」をお造りになるのです。最初のうちは獣や鳥や家畜などが造られて、連れて来られますが、人間の本当の助け手をそこに見出すことができませんでした。すると神は人を眠りに落として、あばら骨を取り、そこから女を造られたのです。人(アダム)は、「これこそわたしの骨の骨、肉の肉」(23節)と言って助け手として喜んで受け入れました。
しかし、この創世記の記事に関しては長い間、このような解釈がなされてきました。最初に男が造られ、すべての造られたものの最後に男の一部を用いて女が造られた。したがって男は女より優位に立つ。男から女が取り出されたのだから、女は男に従属し、自立した存在ではない。これは新約聖書のパウロの考え方にも大きな影響を及ぼした解釈です。そして2000年のキリスト教会の歴史にも暗い影を落としてきました。
人のあばら骨を用いて女が造られた時、その「人(アダム)」は男になりました。これまで女がいなかったのですから、このときに男女が造られることになりました。そして「彼に合う助ける者」と記されてあるために、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたという主張が出てきました。それは果たして本当なのでしょうか? 「彼に合う助ける者」とはヘブライ語では「エーゼル・ケネグドー」と表現されます。エーゼルという言葉には「助手」という意味がありますが、そのほかにも「仲間」「連れ合い」「相方」などと言う意味もあります。英語ではパートナー、サポーター、そしてヘルパーと訳されています。ですからこの聖句を「助ける者」と訳すことは間違いではありませんが、仲間や連れ合いや相方と言ってもいいのです。ところが問題はケネグドーという言葉にあります。実はこれは3つの意味が組み合わさっているのですが、簡単に言いますと、「彼の前にある」「彼と向き合う」という意味で、私たちの聖書から受ける「彼にふさわしい助け手」とか「彼のための助け手」というニュアンスはまったく無いのです。岩波書店の聖書の訳は、聖書学者の月本昭男先生が訳されましたが、「彼と向き合うような助け手を造ってあげよう」としています。また英語圏で多く用いられているNRSV(新改訂標準訳、1989年)という翻訳がありますが、ここでは“I will make him a helper as his partner.”と「彼のパートナーとしての助け手」と訳しています。
このことを前提にして、今日の箇所のヨセフとマリアを見ていきますと、実は旧約聖書の中で「エーゼル」という言葉が十数回出てきますが、王様を指すこともありますが、大半は神さまを指してこの言葉が使われています。力のあるものが力のないものに手を差し伸べるのです。生まれたばかりの乳飲み子を育てる親、今日の箇所では16節にヘロデ王が「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」とありますからイエスがお生まれになって2年ほど経過していたかもしれません。しかし2歳の子でも一人で生きていくことができません。ヨセフとマリアは一生懸命に愛情を注ぎ、イエスを育てたことでしょう。また身体の弱いお年寄りを支える健康な若者、難しい病気の治療に当たる医者、多くの知識を子どもに教える教師などなど、これらはみな「エーゼル」なのです。
私たちの生きる現代社会では職業も多種多様なものに分かれています。そして人間が一人では生きていくことのできない社会です。力を持っている者がそれを自分のためにだけ使わないで必要としている人のもとで発揮していくことはますます必要です。でも私たち人間には驕りがあります。以前、「勝ち組」「負け組」という言葉が流行ったことにも象徴されるように自分が人より優位に立とうとする傾向です。
そこで大切なのが、「ケネグドー」の精神です。先ほど「~の前にある」「~と向き合う」という意味があることをお話ししましたが、ケネグドーは「同じ位置に立って」という意味を持ち、上から目線ではなくて「同じ目線で」ということがケネグドーの意味です。同じ目線で顔と顔を合わせるこれこそが私たちの社会に求められていることです。同じ人間として心を開いて交わる。人間は同じ人間と繋がることで安らぎを得るものです。そして心を豊かにされ、生きる希望も湧いてきます。ケネグドーの精神で人を見ることのできない人は本当に不幸な人だと言わねばなりません。ヨセフもマリアもまさしく「エーゼル・ケネグドー」として互いに愛し、協力しながらイエスを育んでいったのです。今日は2025年の最初の主日礼拝です。この新しい年にいよいよお互いが「エーゼル・ケネグドー」として神さまから造られた存在として助け合い、支えあい、交わりを深めていきましょう。