イザヤ書53:6-7;ヨハネによる福音書1:29-34
私たち自身が、これまでに見たことや聞いたことなどの体験、そして、いろんなことを通して知ること、理解できたこと、整理できたこと(してきたこと)など…こういったことは、神を通して、つまり聖霊の働きによって、とても大きな証言になって、力強いメッセージとなっていくということがわかります。
本日の聖書に登場する洗礼者ヨハネは、まさに、そのように自分で見たことや聞いたことを証しした人でした。今日のみ言葉で洗礼者ヨハネは言っています。「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」の「見た」という言葉、そしてもう一つ、「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』」の「聞いた」という言葉。洗礼者ヨハネは「見て」「聞いた」、そのことでピンと来たのです。「見た」「聞いた」というのは、ただイエス・キリストが目に写っただけではない、ただお遣わしになった方が言ったことを聞いただけではない。洗礼者ヨハネは、その人の本性を見抜いて本質をつかんだのです。イエス・キリストが神の子であると直感的に感じとったのです。
聖書の中で「見る」とか「聞く」という言葉がとても大事だとわかります。この言葉は意識的に見たり聞いたりするというも意味します。もう一つ、今日の箇所の手前にある「知る」という言葉も大事な言葉で、「見る」「聞く」と同じように意識が伴います。意識が働くというのは目を向けていくということ、神に目を向けていくということです。これは「信仰」へとつながっていくことです。神のことを知るということ・・神は私たちの主である。私たちを創られ、愛され、導かれ、私たちを守られ、私たちの罪を赦し、私たちを救う。私たちに永遠の命を与え、私たちを生かしてくださるお方だと知ること。私たちが神の存在を知る、そして神と私たちとの関係性を知るということ、これは本来、人間が生きる上で最も大切なことなのです。そのことを、私たちは聖書のみ言葉を通して、見て、聞いて、知る……そのようにして神さまとの交わりをしていくのです。しかし、意識を持っていく行うことには限界があります。人間が持つ能力だけで行うことは大変困難なことです。というのも、そこに人間の弱さがあるからです。これは聖霊の働きに導かれて初めてわかるのです。礼拝を献げていく中で、信仰の友と共にみ言葉を読んで、祈りを献げていく中で、信仰の友との交わりの中で、私たちは神さまの存在を知ることができる。聖霊の働きによって、神の存在を知る中で、私たちは罪赦され、清められ、そして、上から神の恵みに満たされていくのです。
洗礼者ヨハネは神さまの存在を意識していました。きっと意識的に神さまの方にいつも目を向けていたとのではないでしょうか。ある意味、人間の限界を感じていたかもしれません。洗礼者ヨハネは「水でバプテスマを授けさせるようにと遣わされた」と33節にありますので、そのように神から遣わされたということになりますが、彼が水で洗礼を授けていたのは、罪の悔い改めさせること、これまで神から離れていた罪深い状態から水で清められてその罪が取り除かれ、神と共に歩む関係へと回復させるということが目的でした。ヨハネ福音書には詳しく書いていませんが、共観福音書では人々が洗礼者ヨハネの元に行き、ヨルダン川で洗礼を受けるという場面が出てきます。そこに集まってくる群衆は、みな自分の罪の状態を自覚し、その罪を清めてもらいたいと思って、洗礼者ヨハネのところに行って洗礼を授けてもらっていました。しかし、洗礼者ヨハネは、水で洗礼を授けるということしかできない。自分には、人々の罪を赦してもらうために、この水で罪を清めるということしかできない、そう思っていたのではないかと考えるのです。それが人間の限界です。
旧約聖書、特にレビ記に記されるには、さまざまなことで人々が罪を犯した時に、主に祭司が罪を清めるための祭儀を執り行っていることがわかります。祭司がいるところは神殿ですから、わざわざ罪を犯した人々は神殿にまで出かけてゆき、罪を清めてもらうために、律法に定められた手順に従って祭儀を行うのです。洗礼者ヨハネが、主にヨルダン川で洗礼を授けていたのは、罪の清めの祭儀を神殿ではなく、神殿の外で行ったというのがとても画期的なことでした。ですから大勢の人びとが集まってきた。共観福音書においては、実にその地域の全住民が彼のもとに来たというのですから、とんでもないことが起きていたのです。しかし、洗礼者ヨハネが出来たのはこれが限界だった。本当に罪を赦すことができるお方は、神のみであると実感していたのです。
自分の罪を悔い改める……これは、自分が自覚をもって(意識的に)悔い改めた時に赦されるものでしょうか? 確かに自分で罪を自覚することは大いにあります。神から離れてしまっているな。神の御思いに背いた言動や行いがあるな。そういった罪を自覚して告白することは、とても大切なのだと思います。しかし、自分では自覚できない(意識できない)罪もあります。そう、大いにあるのです。自分では気づいていないのです。人に言われて初めて気づくこともあるかもしれない。もしくは、人に言われても自分でそうだとわからないということもあります。とにかく罪に覆い尽くされてしまっているのが、私たち人間の存在です。その自分の罪を、自分の意識を持って悔い改めて清めてもらうと言ったことには限界があります。
洗礼者ヨハネも限界を感じていた、自分が執り行う水で洗礼を授けるということに。そのような時に、洗礼者ヨハネは見たのです。…誰を?…イエス・キリストです。イエス・キリストを見たのです! 洗礼者ヨハネは言います。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。イエス・キリストが目の前に現れました。ヨハネ福音書ではサラリと書いていますが、ここは大変感動する場面だと思います。洗礼者ヨハネは予め聞いていました。「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた」・・洗礼者ヨハネは、そのように聞いていたのです。だから期待していたでしょう。そして、自分にも限界を感じていた。そこに、イエス・キリストが現れたことで、やっと来た! 真の方が来た! 神の小羊、救い主イエス・キリストが来た! 希望の光が自分の目の前に現れたのです。喜びと感動。この方が来てくださったので、もう安心だ。そのような安堵感さえ覚えます。まるで、さまざまな苦しみから解放された時のように。そして、どん底にいる自分を引き上げてくれる助け手が現れた時のように。しかし、それだけではなく、荘厳な思いも持ったと思います。なぜなら、この神の小羊イエス・キリストは、「わたしよりも先におられた」と言っているからです。これはヨハネ福音書の初めで言っている、「はじめにことばがあった」と言っていることで、すでに天地創造する時には神と共におられたのです。その方が目の前に現れる。非常に何と言って良いか全くわからない。そのような状況だったのではないでしょうか。
今日の箇所に出てくる「神の小羊、イエス・キリスト」。「神の小羊」は、旧約聖書にある2つの書物に出てくる内容が関連していると言われています。1つは出エジプト記で、もう1つはイザヤ書です。出エジプト記は、過越の小羊が出てきます。エジプト人の圧制下に苦しんでいるイスラエルの民を、主なる神が解放しようと決めたとき、家族で住む家ごとに「傷のない1歳の雄の小羊」を1頭ずつ屠(ほふ)って、夜にそれを食べて(食べきれない時は隣の家とわけても良い)、その小羊の血を取って、家の入り口の2本の柱と鴨井に塗るようにと命じるのです。これが徴となる。その夜、主なる神がエジプトの国を巡る時に、人でも家畜でも、エジプトの国にいるすべての初子を撃つというのです。主なる神が命じた通りのことを行っていない家々の初子は神によって撃ち殺され、小羊の血を塗った家々については、初子は撃ち殺されず、過ぎ越していくというのです。神の小羊とは、傷のない、汚れのない小羊、その小羊の血は主なる神への献げものなのです。
先ほど朗読されたイザヤ書では、第2イザヤ書と呼ばれる中の53章が関連していると言われています。「屠り場に引かれる小羊」というように出てくる言葉は、もともと預言者エレミヤが敵に迫害される自分の姿を「屠り場に引かれていく小羊」(エレ11:19)に譬えているところから出てきていて、これは、のちに「主の僕」の姿を示すために用いられるようになります。それは、イスラエルの民の罪を償うために死ぬ「主の僕」は、「屠り場に引かれて行く小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」(イザ53:7)と言っています。
「神の小羊」……この2つの旧約聖書の言葉から、これがイエス・キリストのことを言っているといわれています。洗礼者ヨハネは、イエス・キリストが目の前に現れた時に「神の小羊」と言ったのは、さきほど説明したことが全部内容的に包括されています。つまり、神の小羊、イエス・キリストは、罪のない、汚れのない尊いお方であり、その方が「わたしたちの罪をすべて……背負わせられ」「屠り場に引かれる小羊のように」して十字架へと連れていかれ、そこで裁かれ殺される。そこで流されたイエス・キリストの血は過越しの小羊の血となり、そして贖罪の血となり、私たちの罪が赦される。本当にこの方こそ、私たちの罪を取り除く神の小羊、そして、その方は神の子だということと、はっきりと認識したのです。もちろん、洗礼者ヨハネは、この時、イエス・キリストの十字架の場面に出くわしていなかったのですが、イエス・キリストのこれからの贖罪的な生涯と死ということについては予期していたのでしょう。洗礼者ヨハネが執り行ってきた水の洗礼は、本当に罪をお赦しになるイエス・キリストが来られる時までのものだったのです。
洗礼者ヨハネは、イエスさまの上に霊が鳩のようにとどまるのを見ています。この霊とは神の霊です。そして、いずれ、このお方、イエス・キリストが聖霊によって洗礼を授ける人だと言うのです。新約聖書の中では、洗礼者ヨハネのようにイエスさまが洗礼を授けるという場面は見当たりませんが、これは、ヨハネ福音書の中では、イエスさまが死んで復活された後に弟子たちのところに現れ、息を吹きかける場面があります。その内容が聖霊による洗礼を意味しています。20:21で「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」と言っている通りです。
私たちが受ける洗礼は、まさにこの聖霊による洗礼です。それは神の恵みでしかない洗礼。神を信じて救われる。ひとたび神を信じる信仰告白によって、聖霊による洗礼を受けることによって、私たちの体に覆いかぶさるように神の小羊なる血によって罪赦され、清められる。そして、救われる。それゆえに新しい命、永遠の命を受けることになるのです。この聖霊による洗礼は永遠に有効なのです。そして、この洗礼は、信じる人は誰でも受けることができるのです。洗礼を受けるわたしたちも見た者となり、聞いた者となり、イエス・キリストの証人となっていくのです。