「私たちを導く声」ヨハネ10:1-10 中村吉基

エレミヤ書50:4-7;ヨハネによる福音書10:1-10

今日のヨハネによる福音書、イエスさまのたとえ話に羊が出てきます。羊というのはおとなしいイメージで素直で、従順な動物のように思いますが、実際にはなかなか言うことを聞かず、群れから離れてしまったりして、意外に扱いにくいのだそうです。イエスさまがなさったたとえ話には、100匹の羊の群れから1匹の羊が迷い出るというものもあります。ですから羊飼いは羊に対していつも細心の注意を払っていなければなりませんでした。

かつてパレスチナでは、羊のオーナーたちは共同で羊小屋を所有していました。羊たちを夜の冷気に当てないようにその小屋に入れたのでした。オーナーは羊飼いを雇って、羊の世話をさせます。クリスマスの記事にも「羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」(ルカ2章8節)と記されているのを皆さんはご存知でしょう。羊飼いたちが交代で出入り口のところで一晩中見張り番をして過ごしました。いわば羊飼い自身が「門」の役割をしていました。

今日の箇所にも記されていますが、羊たちを奪い、殺そうと多くの家畜泥棒や強盗がひしめいている時代でした。そこにはいろいろなオーナーの羊たちが入っているので、朝になると羊飼いがそれぞれやってきて、自分に管理を任されている羊を呼び出します。口笛を鳴らし、羊の名前を呼ぶのだそうです。今のように羊を食用としてではなく、羊毛を取るために飼っていましたから、羊飼いは長い時間を羊と共に過ごしていました。ですから羊のほうも心得ていて、自分の羊飼いの声を聞き分けました。他の羊飼いが呼んでも決してついていきませんでした。羊飼いは自分の羊たちを集めると先頭に立って牧草地に連れて行きます。自分の羊たちに草を食べさせたり、水を飲ませたりするのです。しかし、現在では羊飼いは羊の群れの先頭ではなく最後尾についていって、よく飼いならされた犬を使って群れから飛び出そうとする羊を呼び戻そうとします。けれども昔のパレスチナの羊飼いは先頭に立って羊の群れを導いていきます。イエスさまのことを「良い羊飼い」として今日の箇所のすぐあとのところに記されていますが、羊飼いとは自分の羊たちを守る、信頼できるリーダーとしてのイメージがあります。先ほど共に読み交わしました詩編23編の「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」というのも神が牧者として、人々を集め、守られるといういにしえの人々の信仰によって歌い継がれてきたものです。羊飼いたちは親身になって、あるときには命がけで羊を守り、羊たちも羊飼いを信頼してそのあとを従いました。

今、「信頼」と言いましたけれども、この信頼がなければ私たち人間の関係も希薄になり、また親密な関係にはならないでしょう。3節、羊は自分の羊飼いの声をよく「聞き分ける」ことができます。ですから他の羊飼いには従わないのです。3節の後半から5節を読んでみましょう。

羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。

ここで「知っている」という言葉が出てきます。この「知る」という言葉はさまざまな意味を持っています。私たちが誰かから「○○という人を知っていますか」と聞かれたならば、それはただ名前だけでその人を知っているというのではなく、「どんな人か知っていますか」、と深い交わりの部分で訊かれることが多いのではないでしょうか。もちろん名前だけ、あるいはその人の外見的なことだけ知っているのみだということもあるかもしれませんが、「その人はあなたにとってどんな人ですか」「どんなかかわりがあるのですか」と関係性を問われることのほうが多いでしょう。

今日の箇所に続く14-15節では「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」というイエスさまの言葉があります。主が私たちを知っていてくださるとはどういうことでしょうか。また、私たちがイエスを知っている、私たちがイエスの声を聞くとはどういうことでしょうか。死から甦られて、今も生きておられるイエスさまと私たちはどのような関わりがあるのでしょうか。

第二次大戦後の混乱期に活躍したクリスチャンで澤田美喜(1901-81)という人がいました。今までにも多くのテレビドラマなどに取り上げられていましたので、年配の方は覚えておられることでしょう。

澤田美喜は1901年三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の孫として、東京の本郷に生まれ、不自由のない恵まれた環境に育ちました。しかし、一つどうしても許されなかったのはキリスト教を信仰することでした。

美喜の家は代々真言宗でしたが、美喜は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とのイエスさまの言葉に深く感動し、どうしても聖書を読みたい、教会に行きたいと思っていました。ある時、自分のハンドバックと友人の聖書を交換してもらい、それが祖母に知られた時には大目玉をくらったというエピソードが残されています。その後も何度か聖書を手に入れますが、その度に風呂釜の薪と一緒に火にくべられてしまい、美喜はその前でボロボロと涙をこぼすのでした。

それでも一度得た聖書の感動が忘れられず、自分の誕生日のお祝いに教会に行くことを父にねだりました。しぶしぶ許されたものの、2人の使用人が同行し、教会では他人と話をしない、というのが条件だったといいます。

そんな美喜にとって大きな転機となったのは、外交官澤田廉三(のちの国際連合初代大使)と結婚でした。廉三は、鳥取出身のクリスチャン。これでようやく美喜は教会に堂々と行けるようになったのでした。 

1941年、日本は太平洋戦争に突入。三年半の戦争を経て、1945年、敗戦を迎えました。その陰で新たな悲劇も生みだされていました。捨てられるいわゆる「混血児」(今は「国際児」といいます)たちの急増です。占領軍兵士による強姦、売春、あるいは真剣な恋愛もあったかもしれません。いずれにせよ、「混血児」たちが次々と生まれ、生活苦や当時の世間体を思い巡らして、川や沼、トイレに無惨に捨てられる「混血孤児」が急増したのでした。

1946年のある日、美喜は東海道線を走る列車の中にいました。ガタッと列車が揺れた拍子に、網棚から紫の風呂敷が、真下にいた美喜の膝の上に落ちたので、網棚に戻そうとすると、包みを不審に思った警察が寄ってきて、開いて見せることを要求しました。

言われた通り、風呂敷を開いてみると、中身の異様さに、警官も、周りの乗客も、美喜自身も、息を飲みました。それは、生まれたばかりの黒人嬰児の遺体、だったのです。てっきり美喜を母親だと思い込んでの警官の怒声に、彼女はきっぱりと言い切りました。結局、他の若い女が網棚に置いて降りていったという乗客の証言で、この件から無事放免されましたが、美喜には、この出来事がどうしても偶然とは思えませんでした。

その時、美喜の想いは、遥か遠く、十五年前に外交官の妻として過ごしたイギリスでの日々に飛んでいきました。初めてお金で買えない幸せがあることを教えてくれた、緑の森の中の明るい孤児院「ドクター・バーナースホーム」での子どもたちとの触れ合い。「もし神がお許しになるならば、必ず日本にこのような明るい子供たちのホームを実現させよう」と、神に祈り誓った日の感動。そして目を閉じれば、この手に落ちてきた黒い肌の赤子の、小さな手とちぢれた髪が浮かび、腕には嬰児としては哀しいほど軽い感触が残るのでした。

美喜の耳元に、静かな声がささやき続けました。

「もし、お前が、たとえ一時でもこの子の母とされたのなら、なぜ日本国中の、こうした子たちの、その母となってやれないのか」。

後に、彼女は著書の中でこの時のことを振り返り、「私の残る余生をこの仕事にささげつくす決心を、はっきりさせた瞬間でした」と著わしています。思いがけず自分に降りかかった迷惑な体験を、美喜は孤児の救済のために何かをせよという神のみ声をとして受け止めたのでした。

美喜は、誰も手を差し伸べようとしなかった戦争「混血児」たちの孤児院建設のために孤軍奮闘しました。幸いにも夫・廉三は理解を示してくれましたが、もはや親の七光りは通用しませんでした。三菱財閥・岩崎家の娘とはいえ、戦後の財閥解体で財産を接収されほとんど資金はなかったのです。孤児院に適当と思われた父の大磯の別荘も接収されており、GHQにかけあうと、400万円で買い戻せ、しかも三代にわたって三菱の名義にしてはならないと言われてしまいます。

美喜は必死で、自分の持ち物を全てお金に換え、借金までして大磯の別荘を買い戻し、名義も日本聖公会にしたのでした。すると、さっそくこの孤児院に「混血児」たちが送られてきました。列車の中に、駅の待合室に、公園に、道端に、髪のちぢれた子、色の黒い子、目の青い子どもがおき捨てられた子供たち、栄養失調や病気で生死の境をさまよっている子どもたちを、美喜はまよわず引き取り、懸命な看護を続けました

するとそこに不思議な神の恵みがありました。日本で長く暮らしいたエリザベス・サンダー女史が高齢で召されると、その遺産が美喜の孤児院に贈られることになったのです。これを記念して、孤児院は「エリザベス・サンダース・ホーム」と名付けられました。

その一方で、世間の冷たい視線、さまざまな圧力や偏見との戦いがありました。親兄弟を殺し日本を破壊した米軍の子どもだということで、あからさまな嫌悪や憎悪を示す人が多かったのです。混血孤児院の働きは、米軍からも解散の脅しを受けたり、邪魔をされたりしました。被占領国の女性を力で凌辱していることを、公にされたくなかったからです。美喜は、そんなGHQに乗り込んでいき「あなたがは一度捨てられた子供も、もう一度捨てよというのですか。捨てられるのは一度で十分です!」と抗議したと言います。しかし、一日の戦いが終わると、人知れず崩れるように、壁の十字架の下にひざまずいて、涙のうちに祈り明かすのでした。このようにして、子どもたち一人ひとりの成長を、教育者でも福祉者でもなく「母」としてみつめ、祈り、世話してきた美喜でした。「外からのどんな根拠のない中傷も、妨害も、子どもたちが私を失望させない限り、私の希望は消えません」とつっぱり続けた美喜も、ぐれて犯罪を重ねる少年たち、就職先を世話しても、水商売に流れてしまう少女たちには苦しめられます。

確かに、「混血児」たちへの社会の差別の厳しさはあったでしょう。しかし、乗り越えてくれると信じて、身を削るようにして育ててきた美喜にとって、それは最大の試練でした。

「どうすればいいのでしょうか。神、私の行く道を教えてください。私はなりふりかまわず、示されるままに、ひた走りに、走り続けて今日まできました。これから、どうしろとおっしゃるのでしょう」

涙ながらに祈り終えて、そこで、ハッと美喜は頭をあげました。その壁には、ミレーの「落ち穂拾い」の絵がかかっていました。刈り入れの終わった黄昏色の麦畑に、腰をかがめ、落ちてしまった麦の穂を丹念に拾い集める女性の、安らかな顔。そうだ、考えてみれば大学に進学した子もいる、風邪をひいたぐらいで、「ママちゃま、死んではいや」と泣いてくれるやさしいいい子も、たくさんいるではないか。たとえ、麦の穂の一部がむしばまれても、まだ、私は、落ちている穂を拾わなければならない。こうして美喜は再び立ち上がり、32年間に2000人以上の孤児を育てあげました。

「混血児」の母、羊飼いとして忠実にその務めを全うした澤田美喜でした。私たちは人生の中で、多くの人との出会いを経験して、知り合い、交わります。その関係が深くなればなるほど、信頼が生まれてきます。

ヨハネの手紙一4:7-8には、「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」そしてこのあと4章18節には「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」とあります。

今、人間関係に苦しんでいる人はいないでしょうか。人と人との関係は信頼が深くなればなるほど、私たちは相手のことを思うだけではなくて、相手を信頼し、すべてを委ねることができるようになります。それを妨害しているのは「恐れ」です。私たちの日常の行動の中で、足を掬われ、すべての行動を足踏みさせている原因はすべて「恐れ」です。ではこの恐れを無くすためにはどうしたらよいのか。子どもが親に全幅の信頼を寄せるように、私たちもすべてのことを恐れることがなくなるようになるにはどうしたらよいのでしょうか。

その答えは9節にあります。

わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。

イエスさまご自身が、私たちの救いの門です。イエスさまの声を聞き分けることのできる羊は豊かな牧草を見つけることができるのです。キリストという門を通る人には豊かないのちが与えられます。ここで言う盗人とは「恐れ」のことだと言っていいでしょう。恐れは私たちを10節にあるように盗み、殺し、滅ぼすのです。しかし、イエスさまは羊のためにいのちを捨てられた良い羊飼いです。イエスさまは羊飼いとして、今日も私たち一人ひとりの名前を呼んでくださっています。私たちにはその声が聞こえているでしょうか。私たちには毎日来る日も来る日もたくさんの声が聞こえてきます。しかし、イエスさまの声はひとつです。私たちはそのみ声をしっかりと聞き分けられる者になりたいのです。

引用・参考(太字部分):「キリスト教人物小伝」(16)澤田美喜(日本基督教団荒川教会ホームページに感謝します)