「あなたはわたしの愛する子」マルコ1:9-11 徳田信

エゼキエル書36:25-28;マルコによる福音書1:9-11

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

先日、電車に乗っていると、隣に、赤ちゃんを抱いたお父さんが乗ってきました。お父さんは気づいていないようでしたが、その子は手足をバタバタさせていて、何度もその足が私に当たりました。その時、なんとも言えない喜びがあふれました。そこには、何の恐れもありません。お父ちゃんに抱かれている安心、そして、その安心が、この世界そのものへの安心につながっているのだと感じました。

私たちは大人になるにつれ、多かれ少なかれ人の目を気にするようになります。何か成果を出さなければ、また、姿かたちが良くなければ受け入れられない、そう思い込むようになります。しかし、そのように自分が受け入れられるよう頑張ることには、ゴールがありません。どれだけ頑張っても、さらに、さらに、という圧力にさらされます。

私は、あのキックしてくる赤ちゃんを見ながら、ある神父さんの言葉を思い出しました。ひとは、神に触れられてはじめて人になる。赤ん坊は母親に抱きしめられることで、安心して生き始めます。私たちも、アバ父よ、お父ちゃんと呼ぶことのできるお方を持つことで、生きることができるのです。そして、主イエス・キリストもまた、そのようなお父ちゃんを持っていました。

先ほど読んでいただいたのは、主イエスが洗礼をお受けになった場面です。これを皮切りに、成長された主イエスは人々の前に姿を現しはじめます主イエスはガリラヤ地方のナザレという村から来られました。ナザレは、どこか特別な場所ではありません。いや、特別どころか、ガリラヤ地方という言葉には、むしろ、政治と宗教の中心地エルサレムから遠く離れた僻地という響きさえあります。そんなガリラヤの小村で、主イエスはマリアとヨセフ、そして村の人たちに囲まれて育ちました。

主イエスは私たちと同じ空気を吸い、親の元で育てられ、人々との交わりを楽しんで育ちました。その中で、この世のさまざまな苦しみや不条理も目の当たりにされたことでしょう。

私たちは生きていく中で様々な困難にぶつかります。経済的な苦しみ、病気やケガによる苦しみがあります。

しかし一番私たちを深く傷つけるのは、やはり人間関係の苦しみではないでしょうか。特に、信頼している人に裏切られる、見捨てられる経験ほどつらいことがあるでしょうか。主イエスもその苦しみを経験されました。十字架を前にして信頼していた弟子たちに裏切られました。そして何よりも、ご自身と一つであった父なる神に見捨てられたのです。私たちは聖書の記事を通し、三日目に復活させられたことを知っています。しかしこの十字架の瞬間は、主イエスがもっとも大きな苦しみを受けた瞬間だったはずです。

主イエスは私たちと同じようにこの世に生をお受けになりました。私たちと同じように成長し、そして私たちと同じように洗礼をお受けになりました。洗礼を受けた皆さんは、受ける決断をした時のことを覚えておられるでしょうか。喜びをもって一歩を踏み出したことでしょうが、しかし同時に、家族や周囲の人たちの目が気になった方もおられるかもしれません。

諸外国と比べて、日本では周りと同じでなければという圧力、同調圧力が強いと言われます。同じでないと恥ずかしいという雰囲気があります。そういう意味では、人口1パーセント以下と言われる日本のキリスト者は、典型的に変わった人たちということになります。

しかし、神の目から見るならばどうでしょうか。かつて古代教父の一人、ユスティノスは言ったそうです。「キリスト者になるとは、本来の人間になることだ」。当時、キリスト者は少数派でした。今の日本よりも割合は少なかったはずです。危険なカルトのように思われていました。しかしこの信仰の先達は言いました、恥じることはない、キリスト者こそが人間として本来の姿なのだ、と。

私たち人間は、もともと、神と豊かな交わりを持つものとして造られました。愛し愛される関係を築くために、神のかたちとして私たち人間をお造りになりました。しかし創世記、アダムとエバの話が物語るように、私たちはしばしば神を無視して、いや神に背を向けて、生きているということがあります。しかしそれは、決して本来の姿ではありません。たとえ周りの多くの人々がそうであっても、決してあるべき姿ではないのです。キリスト者になるとは、人間本来の姿に戻ることです。

そして主イエスはそのような人間のあり方を、言葉と生き方によって示しました。洗礼を受けることもその一つです。初期の教会において、洗礼は、全身を水に浸けるかたちで行っていました。今でもそのように行う教会があり、洗礼そうという大きなバスタブのようなもので行ったり、海や川で行ったりします。

その場合、全身を水に浸けるのは、古い自分に死んで、神によって新しく生まれたことを表します。かつて主イエスが十字架で死なれ、三日目によみがえったように、その主イエスを衣のように着る私たちも、古い自分に死んで、新しい自分に蘇らされるのです。神無き人生から、神を見つめ、神に見つめられた人生に変わる。主イエスが洗礼をお受けになったのは、私たちにその模範を示すためだった、そう言う面があると思われます。

さて、並行記事であるマタイ3:15において、主イエスはヨハネとの会話の中で、洗礼を受けることは正しいことだと仰っています。これまで、本来の姿、まったき人間、正しい人間という言葉を使ってきました。少し固いイメージを持たれたかもしれません。背筋をピンと伸ばしていないといけない、どこか窮屈さを感じる言葉です。しかし神の正しさは行儀のよい、窮屈な正しさではありません。むしろ愛による正しさ、私たちがかつて知らなかったほどの愛に生きる、その意味での正しさです。

主イエスが洗礼を受けられた時、天が裂けました。私はこの言葉に、主イエスに対する父なる神の熱い思いを感じ取ります。天とは神のご臨在を表す言葉です。この天が裂けたのです。「胸の張り裂けるような思い」という言葉があります。主イエスに対する父なる神のご愛が、まさに、胸が張り裂けんばかりの思いがはじけました。父なる神の熱い思いが張り裂けて、主イエスの上に鳩のように降りてきました。鳩は平和をイメージする鳥です。平和というより平安という言葉の方が、より身近かかもしれません。

私たちの普段の苦しみは、多くが人間関係の破綻から来るものです。そうであるならば、喜び、まったき平安は、関係がつながった時にやってきます。神の愛は鳩がイメージするまったき平和、まったき平安を主イエスに注ぎました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声と共に、です。

主イエスはこの声を聞くことによって、公の働き、公生涯を始めました。父なる神は主イエスの最後がどうなるか分かっていたはずです。十字架に至る苦難の道であることをご存知だったのです。だからこそ、大切なひとり子主イエスを力づける言葉、「あなたは、わたしの愛する子」という言葉をお掛けになったのでしょう。

福音書を読んでいますと、主イエスはしばしば一人になっておられることに気づきます。救いを求める多くの人に囲まれる忙しい毎日でした。しかし定期的に一人静まって祈っておられたようです。祈りとは神との交わりです。主イエスは父なる神とどんな交わりをしておられたのでしょうか。私は、このことについてヘンリ・ナウエンが書いていることに、その通りだと思わされました。ナウエンは、「あなたは、わたしの愛する子」という声を何度も聞き続けていたのではないか、そして父なる神は、この声を、私たちの耳にも届けようとしているのだ、そう言うのです。

キリスト者となることについて、聖書は様々な描き方をしています。たとえば、ローマ8:15でパウロは、「アッバ、父よ」と呼ぶようになるのだと語ります。主イエスは神の子と言われますが、しかしパウロは、主イエスを通して救いにあずかった私たちも神の子なのだと言うのです。「アッバ、父よ」これは小さな子供が「お父ちゃん」と呼びかける言葉です。幼子は恐れを知りません。父の愛をまったく信頼し、その胸に飛び込みます。私たちにとって神は「アッバ」なのです。

私はこれまで何人か恩師と言える方に出会ってきました。その一人に、すでに天に召された平山正実先生がいます。多くの患者さんを診てきた精神科医でしたが、その先生が仰いました。人は支えがないと生きていけない、と。どんな複雑な問題に見えても、結局のところは人からの支えがあるかどうか、それに尽きると仰いました。支え、それは人からの愛と言い換えても良いと思います。

私たちは大人も子供も、どんな人であっても、つまるところ、人から愛されている、人に必要とされている、人に認められている、人に関わりを持ってもらっている、ということがないと、生きていけません。それが失われたとき、どんなに強そうな人であっても、ポキッと折れるように死んでしまうのです。たとえ肉体的にでなくても、精神的に、霊的に死んでしまう、そう先生は仰いました。

聖書は罪ということを語ります。私たち人間は罪人だと言います。罪とは何でしょうか。それは神を神としないことです。神を無視していることです。どんな神でしょうか。それは「私たちを愛してやまない」神です。私たち一人ひとりに「あなたは、わたしの愛する子」と声をかけておられる、そんな神です。しかしそれに耳を塞いでいるのが、罪人である私たち人間です。

もし皆さんが、まったくの善意で誰かにプレゼントしようとしたとします。しかしその人が、いやいや、自分はそんなものをもらうに値しないので要りません、と断ったらどうでしょうか。大変失礼なことではないでしょうか。その断った人は、こちら側のまったくの善意を信じていないのです。

神の愛を受け取らないのも同じことです。「あなたは愛しているよ」と声を掛けられているにも関わらず、その声に耳を塞ぐことは、大変失礼なことになります。神の愛を信じないこと、それこそが罪の本質です。神は、ひとり子主イエスをこの世に送り、十字架で犠牲になることを許しました。それは私たちが神の愛に気づくためです。そしていつまでもいつまでも、私たちがその愛を受け入れるように待っておられます。あの放蕩息子の父のように。

私たちはかつて、弟息子のように父親の元を離れ、放蕩の限りを尽くていたかもしれません。いや、今もそのただ中にいるという人もあるいはいるでしょう。また、たびたび小さな家出を繰り返しているのが、私たちの信仰生活かもしれません。しかしたとえ神の愛を忘れ、離れ去り、放蕩三昧に耽っていたとしても、神の愛は変わりません。罪の中にあるその瞬間も、父なる神は変わることなく、帰ってくるのを今か今かと待ち続けています。走り寄って抱きしめ、愛の言葉を掛けたいと切望しています。私たちが愛を忘れ罪の中に苦しんでいることに、神は耐えられないのです。

「あなたは、わたしの愛する子」。主イエスに掛けられたこの声は、私たちの上にいつも鳴り響いています。神は私たちにその声を聴かせたいと切望しておられるのです。人生のスコアボードを埋めるようにと急き立てる、大きな大きなこの世の声があります。しかし、私たちが第一に聞くべきは、小さな小さな神の声です。私たちもまた、電車で安心してお父ちゃんに身を預けていた、あの赤ちゃんではないでしょうか。