ヨハネによる福音書3:1−17
「夕べがあり、朝があった」とは、創世記第1章の神が天地を創造される物語に何度となく記されている言葉です。ユダヤの暦は日没から翌日の日没までを一日を数えますから、「夜が来て、朝が来る」と表記されることは何ら不思議なことではありません。私たちは「朝が来て、夜を迎える」ことに慣れています。しかし、今日の記事に登場するニコデモという人は、夜になるのを待って主イエスのもとへと訪ねてきました。2節に「ある夜、イエスのもとへ来て」とあります。ユダヤであってもやはり人を訪ねるのは日中だったでしょう。しかも、「ある夜」とあります。すぐに読み飛ばしてしまうような言葉ですが、福音書の記者は、その出来事が夜であったことをあえて特別に記しているのです。なぜニコデモは夜にやってきたのでしょうか。
ニコデモは「ファリサイ派に属する……ユダヤ人たちの議員」でした(3章1節)。この議員というのはユダヤ最高法院の議員か、もしくは会堂長であったということです。ちなみにニコデモという名の由来は「勝利者」という意味で、日本で言えば「勝さん」とか「勝利さん」と言えるでしょうか。彼はエリート中のエリートでした。その彼が主イエスに会いに来ました。彼がファリサイ派といえば、主イエスとは敵対していた関係です。議員の身分で、ファリサイ派の彼が公に主イエスのもとに訪れたならば、もうそれは一大事になることは彼の目に見えていたことでしょう。けれどもヨハネの7章を読むと分かるのですが、むやみにイエスを裁くのではなく、本人から話を聞いて、していることを調べてみなければ、イエスのことを裁いてはいけない、と彼は主張しているのです。そのこともあったかもしれません。「ある夜」、こっそりと彼は主イエスのもとへとやってきたのです。
2節のところを読んでみましょう。
「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
ニコデモは主イエスのことを「知っています」と言いました。きっと主イエスのことをどこかで知りえていたのでしょう。人々にまぎれてどこかで主イエスの奇跡を行われたことを知り、その言動に深く興味を持っていたことでしょう。彼は主イエスに「ラビ」と呼びかけています。これは主イエスを「救い主・メシア」と見ているのではありません。自分と同じ「イスラエルの教師」として見ています。ニコデモ自身だけではなく、「わたしどもは」と言いました。これは彼と同じ最高法院の構成員やユダヤ人たちの中にイエスを「神のもとから来られた教師」と信じている者たちもいたのでしょう。いずれにしても彼らがイエスを力のある宗教指導者と見ていたことは、この2節から判ります。そしてニコデモは主イエスの行った奇跡、ここでは「しるし」と表現されています。この奇跡を通して「神のもとから」主イエスが来られたと彼は言っているのです。しかしそれに対する主イエスの答えは彼の予想を裏切るものでありました。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3章3節)
「はっきり言っておく」(「アーメン、アーメン」という言葉です)と主イエスが仰るときには大切なことが告げられます。すなわち、主イエスは奇跡を通して神を見る、奇跡によって人間が救われるのではなくて、「神の国を見る」ということこそが最も大事なことなのであると言われました。この世界は人間の罪がはびこり、不正や暴力などその一切が神の正義、愛の支配に変わることが「神の国を見る」と言うことです。人間はこの世のそうしたドロドロとしたものにしがみついて生きることが本当の生き方なのではなくて、すべてを神のご支配に委ねることが「新たに生まれ」ると言うことであり、神の国の一員として生きると言うことをニコデモに教えたのでした。
しかし、ニコデモは全く主イエスの言っていることが理解できませんでした。さっぱりちんぷんかんぷんなのです。彼は奇妙なことを言い始めました(3章4節)。
「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」。彼は「新たに生まれなければ……」と主イエスが言ったことを、もう一度生まれた時から人生をやり直すと言うふうに捉えました。しかし主イエスはそう言っていないのです。「もう一度母親の胎内に入る」などということが不可能なことは誰にだってわかるはずです。ある聖書はここを「人は上から生まれなければ」と訳しています。「上から」つまり「天の神から」生まれるということを意味しています。肉体的に人生をやり直すのではなく、霊的に神と結ばれることによって新たに生まれ変わる、ということを主イエスは言っているのです。そして5節で「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われます。「はっきり言っておく(アーメン)」という言葉がまた出てきました。夜、こっそりとやってくるのではなく(闇の中でなく)、日の光の照り輝くところで、「水と霊」(洗礼)によって信仰を堂々と言い表すことによって「新たに生まれる」のだと主イエスは告げられました。人が生まれるときには母体の羊水のから外の明るい世界へとやってきます。それは闇から光への旅といえます。けれども主イエスの仰る「新しく生まれる」ということは霊なる水によって、つまり洗礼の水によって、人は神の国の一員となるということを表しています。
そして主イエスはこういうふうにも言っておられます。少し先になりますが14節からです。
モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
昔、エジプトで奴隷状態になっていたイスラエルの民は、モーセに率いられて、エジプトを脱出し、荒れ野をさまよっていた時に、神とモーセに逆らったために、神は毒蛇を送り、その蛇に噛まれた多くのイスラエルの人々は命を落としました。そこでモーセは青銅の蛇をこしらえて、旗竿の先にそれを戴き、蛇が人を噛んでも、その人が青銅の蛇を見上げれば、命が助けられたという出来事がありました(民数記21、列王記下18など)。
「人の子も(そのように)上げられねばならない」とは主イエスが十字架にお架かりになることによって私たちの罪を担い、神と人間との絆を保ったのです。罪というものは神と人間の関係をぶち壊しにするだけではなく、人と人との関係も壊す力を持っています。主イエスが人間の罪の苦しみをご自身の苦しみとして引き受けられ、それを取り去ってくださいました。主イエスを信じる者が「永遠の命」を得ることが出来るのです。
明治時代のクリスチャンで好地由太郎(こうち・よしたろう)と言う人がいました。1865年今の千葉県に生まれ、18才で日本橋のある商店に奉公に出されました。しかし奉公先で悪事を重ね、挙句の果てに奉公先の女性の主人を殺害、金を奪い、証拠を消すために放火し、終身刑の判決を受け、北海道空知の監獄に入れられました。しかも獄中でさえも、彼は脱走を繰り返し、その度に逮捕され、少しも反省の色もないために看守たちも手に負えない受刑者でした。
ところが、ある日のこと、留岡幸助牧師が刑務所を訪問し、彼に一冊の聖書が差し入れられました。これは由太郎の母親からの差し入れだったようです。しかし教育を受けていない彼には文字を読むことはできませんでした。もっとももし字が読めたとしても、その時の彼には聖書などを手にすることはなかったと言ってもいいでしょう。
ある日のこと、由太郎は不思議な夢をみました。天使のような輝いた顔の少年が現われて「この本を食べなさい。これは永遠の生命を与える神の道です。」と彼に告げたというのです。それはきっと母から差し入れのあった本(聖書)のことだと気づいた好地由太郎は、看守長から片仮名と平仮名を学び、聖書を一生懸命に読み始めました。
聖書を読んで行くに従って、彼は「なんと自分という人間は、人生に値しないような生き方をしてきたのか」と思いつめるようになり、彼は変えられて行きました。人の嫌がる便所掃除などを率先してやるようになり、病気の囚人には心をこめて介護し、自分の魂を救った福音を他の囚人たちにも伝えました。主イエスの御言葉に触れ、彼は新しい人生を歩み始めたのです。
一転して模範囚となった由太郎は、恩赦により釈放されました。また特別な計らいにより戸籍から犯罪歴が抹消されたとも言われています。彼は23年もの間、監獄で過ごしましたが監獄を出た由太郎は、やがて牧師になって多くの人々をキリストに導き、一生を終えました。
虫のいい話に聞こえるかもしれませんが、十字架のイエス・キリストが自分の罪をすべて赦して、担ってくださることを知ったときに由太郎はきっと自分なりに苦しんできたことがすっかり消えて、心が楽になったのではないでしょうか。
「新しく生まれる」ということは今までの人生がすべて帳消しにされるということではありません。自分自身の人生、自分自身のいのちであると思い込んでいたのが、神が与えてくださった人生、神がお造りくださったいのちであることを信じることです。いわば、自分中心の生き方から、神中心の生き方へと変えられることなのです。
今日の箇所の中で、特に16節は福音がこの1節に凝縮されているとまで言われている聖書の言葉です。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
この16節は「胡桃の中の福音」とも言われます。胡桃はつまり殻ではなく、その内部に隠されていることを表すのでしょう。聖書で最も愛される聖句でもあります。
またⅠヨハネの手紙の3章16節にもこう記されています。
イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。
私たちの人生において、どんなに辛いことがあっても、楽しいと思えない日々でも、これからの未来もすべて神が御手のなかで導き、守り、祝福してくださることに気づく時、私たちは神の子どもとされていることに気がつくことでしょう。あなたはその神の国の大切な一人です。それを改めて知り、信じることが「新しく生まれる」ことなのです。