申命記31:1-8;エフェソの信徒への手紙6:10-20
今日の箇所はモーセの人生の幕引き、すなわち彼の〈死〉について記しています。世の中では〈終活〉ブームともいわれております。皆さんはご自分の最期、エンディングについてどのように考えておられるでしょうか。中にはまったく想像もつかないという方がおられるかもしれません。
もう40年も前の話ですが、私が高校生の頃、私の通っていた教会に当時聖路加看護大学(現・聖路加国際大学)の日野原重明(1911-2017)先生が講演に来られたことがありました。当時の先生はまだ70代でした。私は日野原先生がお話しされた内容を残念ながらほとんど覚えていませんが、一つだけ強烈な印象をもって憶えていることがあります。それは人間の死というものは、その本人が思い描いているよりも〈早く〉やってくると言われたことです。70歳まで生きると思っている人が、100歳まで生きると思っている人が、実際には自分が思っているよりも早く死がやって来る人が多いのだと先生は言われました。ですから100歳まで生きたいと思ったら「自分は120歳まで生きる」、70歳だったら80歳に目標を高く設定してなどと日野原先生が言ったわけではありませんが……今日の箇所を読んでみると、私はモーセが自分ではもう少し生きると思っていたのではないかと推察するのです。思えばモーセが生まれて120年の歩みは様々なことが起こり、ドラマティックなものでしたが、その最期はとても静かに時が流れて行きます。
モーセたちがエジプトを脱出してすでに40年が経とうとしていました。40年という年月の間には、多くの人が亡くなり、新しい世代も出てきたかと思われます。モーセはイスラエルの民のリーダーとして長い間民に、神の言葉を語ってきましたが、その最後の言葉としてこのように言いました。
「わたしは今日、既に百二十歳であり、もはや自分の務めを果たすことはできない。主はわたしに対して、『あなたはこのヨルダン川を渡ることができない』と言われた」(2節)。
120歳というと、今日のような高齢化した社会でも「超高齢」と言わねばならない年齢です。いよいよ歳もとってきたし、若い世代に交代するのかと思われますが、そうではありませんでした。このあとの34章には「モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった」(34:7)と記されています。その通りであったのでしょう。モーセが今、ヨルダン川の向こうにやっと見えてきた神が約束された乳と蜜の流れる地カナンに入ることが出来ないのは、神がお決めになったことでした。
私たちならどう思うでしょう。神は何とむごいことをされるのか、40年という長い間、民を率いてきて、あと一歩で神の約束の地に入ることができると言うのに、その地が見えてきた山の頂でモーセを死なせてしまうなんて・・・・・・と思わないでしょうか。しかし神が民の「しんがり」になって導いて来られました。出エジプトの物語はモーセが主人公なのではありません! そうではなくそれは「神」の物語です。この時、モーセに代わってヨシュアが後継のリーダーとするのが神のみ心だったのです。
この先、イスラエルの民にはまたどんな道が、どんな出来事が起こるのか計り知れないのです。しかし、モーセは語ります。6節と8節に「恐れてはならない」と2度も強調されています。「あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない」という神からの「安心」の約束が告げられるのです。
もう一つ注目したい言葉があります。それは6,7節でやはり2度強調されている「強く、また雄々しくあれ」という言葉です。「雄々しく」という表現は女性には相応しくないと思われるかもしれません。しかしこれは私たちが「強く、雄々しく」なる努力をするのではなく、神の「強く、雄々し」い御力がいつでも私たちを支えるのだという約束の言葉です。
モーセはこのように全イスラエルの前で語ったのです。自分は「百二十歳であり、もはや自分の務めを果たすことはできない」と語った彼の心情は如何ばかりだったでしょうか。しかし自分が「老人となったことへの怨みがましい愚痴は」(鈴木佳秀)一つも見当たらず、厳粛にでもすがすがしく語っています。ここでずっとモーセの心にあったのは、「あなたはこのヨルダン川を渡ることができない」と言われた神のみ心を守ることだったのでしょう。3節の後半で「主が約束されたとおり、ヨシュアがあなたに先立って渡る」とあるようにモーセは自分の職務をヨシュアに引き継ごうとします。
私は以前イスラエルへの旅をした時に、このモーセが最期の時を過ごしたネボ山を見た時に、言い表せないほどの悲しみを憶えました。しかし今日のこの説教を準備している際に、そうではなく本当に「強く、雄々しく」モーセは神のみ心を受け入れたのだということが判って来ました。
先ほどお話しした日野原重明先生は著書の中で四千人を超えるさまざまな人の〈死〉を看取ってきたと書かれています。四千人です。どんな大教会の牧師でもそんなに人の死を看取る人はいません。その中で冒頭お話ししたようなことを経験されてきたのでしょう。あの「地下鉄サリン事件」の時にも病院の陣頭指揮をとって人々の救出にあたられました。四千人の死を看取った日野原先生はこのように言っておられます。「死は各人各様の『生の最後のパフォーマンス』であると、つくづく感じます」。
一人の人間が死ぬ時の要因も背景も、その人を囲む状況もみんなそれぞれに違う。けれども人間に〈死〉は共通してやってくる事実です。その〈死〉は「生の最後のパフォーマンス」として意味のある出来事なのだと先生は言うのです。
モーセは神が約束された地を目前にしての〈死〉を神のみ心として受け入れなくてはなりませんでした。そしてヨシュアにも突然の後継者指名がされて、彼は彼で怖れおののいていたことでしょう。しかし、神は言われました。7,8節です。
モーセはそれからヨシュアを呼び寄せ、全イスラエルの前で彼に言った。「強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、主が先祖たちに与えると誓われた土地にこの民を導き入れる者である。あなたが彼らにそれを受け継がせる。主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。
思えば、十字架に至る道のイエス・キリストも〈死〉を神のみ心として受け入れたのでした。主イエスはゲツセマネの園で「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。十字架での死がみ心ならばそれを受け入れるとの強い決意の表れでもありました。そこにも神よって人間が「強く、雄々しく」あることができるための支えのみ手が働いていたのでした。
私たちもさまざまな道を歩みます。まだまだ生きていたい、あるいは生きられるだろう、と思うこともあります。これからヨルダン川をわたって新しい一歩へと進みゆかねばならない時もあります。十字架の道行きのような苦しい歩みもあります。そのような私たちの人生の折々の扉の前で神は皆さん一人ひとりに語るのです。
「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない」。