「失望から希望へ」マタイ28:1-10 中村吉基

エレミヤ書31:1-6;マタイによる福音書28:1-10

皆さん、2023年のイースターおめでとうございます。
神はイエス・キリストを死から復活させられました。

主イエスがお生まれになったとき、ヘロデ王は、自分の地位が新しい王によって奪われるのではないかと危ぶみ、当時ベツレヘム周辺にいた2歳以下の男の子を皆殺しにしました。しかし、ヨセフ、マリア、イエスはすでにエジプトに避難し、その危機を逃れました。悪の力は決して神の力に勝つことができないのです。そして、主イエスが金曜日に十字架で殺されてから3日目の朝、主イエスは甦られました。またしても悪の力は神の力に敗北したのです。

私たちの身のまわりを見ても、あたかも神の力は弱く、悪が強大な力ではびこっているように見えます。大きな軍事力を持った国が、小さな地域の人びとを攻撃し続けたり、裕福な人たちが貧しい人たちから搾取したり、この世界は強い人々がますます強くなり、弱い人々が見捨てられ、社会の片隅に追いやられることばかりが起こっていることを私たちはよく知っています。しかし神の力に悪の力は勝つことができないのです。カトリック教会でイースターに歌われる「復活の続唱」という聖歌がありますが、その中で、「死といのちの戦いで、死を身に受けたいのちの主は 今や生きて治められる(Mors et vita duello confixere mirando : dux vitae mortuus, regnat vivus.)」という歌詞です。死といのち、それは悪と正義の戦い、私たちの目には悪が強いように見えてしまうのです。けれども、神の力に、死も悪も打ち勝つことはできないのです。しかし、私たちはなかなかそれを信じることができません。神を信じていても、キリストに従っていても、洗礼を受けていても、教会に来ていても、心のどこかで「死ぬこと」が恐いのです。悪の力に覆われていて、もはやそこから抜け出すことができないと不安にかられることもあるのです。

2000年前、主イエスの復活した姿に出会うことをゆるされた人たちもまるで、私たちと同じでした。今日の聖書の箇所を読むと「恐れる」という言葉が多く使われています。5節からをごらんください。「天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい』それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」。それに続く8節には女性たちが「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去」った、と記されています。それだけを見ても、いったん死んだ者が甦ったことなど信じることはできませんでした。自分たちが信じ、従っていた主イエスが十字架で殺されてしまった。それ自体がとても恐ろしい出来事でした。「もう駄目だ、もうこれでおしまいだ」と弟子たちをはじめ、多くの人が思いました。私たちの思考の、常識の、経験の「限界」を超えていたのです。

でも死に打ち勝って、神に復活させられた主イエスは、もう安心するよう人々に語りました。その安心を与えるひと言が9節に記されています。

すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。

神は、私たちが信じられずに恐れて不安になっているときにも、安心と希望を抱くことができるようにさせてくださいます。「恐れてはならない。神がなさる救いを見なさい」と、私たちにも語りかけてくださいます。神を信じることによって、私たちは悪に打ち勝つことができるのです。神は私たちに死からの恐怖を取り除き、永遠のいのちを与えてくださるのです。その永遠のいのちとは、私たちの肉体が死んで滅んでも、魂は、私たちの霊は、永遠に生き続けるのです。

人間はだれでも生きていれば失望することがあります。どんなに真面目で良い人であっても、自分の希望を打ち砕かれることがあります。突然の出来事によって、あるいはだれかによって失望のどん底に陥れられます。主イエスが十字架に架かられる前のエルサレム入城の際には、弟子たちも主イエスと一緒に歓喜の声で迎え入れられました。しかし、そのわずか5日後には主イエスは殺されてしまうのです。弟子たちは散りぢりになり、特に男の弟子たちは、自分も殺されるのではないかと、一目散に逃げてしまいました。その絶望感を想像すると相当の衝撃ではなかったかと思わずにはおれません。

失望なんてものではなくて、ある人は家族を故郷に置いて、ある人は仕事を捨てて、主イエスに従っていたのです。主イエスこそが新しくこの国を平和にしてくださる王になられるお方だと信じてやまなかったのです。私たちも同じような失望、裏切り、喪失感に悩まされることがあります。望んでいる仕事をすることができない。頑張ったのに結果が出ない。これを手に入れようとしているのにお金がない。などなどから、愛する人との関係が崩壊する。親しい人との死別、そして不治の病に罹るなど深刻な失望もあります。そういうことがあると人間は道から外れたことをするものです。信仰を捨てる、教会生活をやめてしまうといったことがこういうときに起こりがちです。だからこそ私たちは、いつかやってくる失望に備えて、それをどう克服したらいいのかを身につけておかなければいけないのです。

多くの場合、失望を引き起こすのは、過去のことに私たちの心が支配されている、もっとわかりやすく言うと、トラウマになっていることが挙げられます。ですから失望を克服する近道は、過去を忘れることです。もしもその失望している原因が自分にあった場合、自分を責めてしまってはいけません。自分の失敗、罪を素直に認めて、神に赦しを願いましょう。もし人に迷惑をかけてしまったならば、周囲の人たちにも赦してもらうことに努め、赦しを得られたならば、そのとき私たちは前へ進むことができるのです。

ですからいつまでも私たちはくよくよして自分の失敗、罪に囚われていてはいけないのです。それはいつまでも苦痛を引き起こすことになるからです。また多くの場合、失望は他人によって引き起こされます。それが自分の心の大きな傷になっています。自分でその傷を癒すことができないので、新しいスタートを切ることもできないのです。けれどもどれだけ失望しても、私たちはそれに囚われてはいけません。だれかにひどく裏切られた、だれかのダシに使われた。神に一生懸命お祈りしたのに、その祈りが聞かれなかった。しかし、そうしたことは私たちの心の中にいつまでも残しておくのではなく、神に預けてしまってください。

そして私たちは、神が与えてくださった皆さん一人ひとり、すべて違う人生の道を堂々と歩んでください。「隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある」(申命記29章28節)。どんなにその理由がわからないことがあっても、やがてそれは明らかにされます。私たちの身に起こる一つひとつのことには意味があるのです。神が皆さん一人ひとりに良かれと思ってなさっていることです。

皆さんは失望したことがあるでしょう。失望すると私たちは次にどうなるでしょうか? 挫折します。決して私は皆さんに鋼のような強い信仰をもってこれに立ち向かいなさい、とは言いません。痛みや悲しみや苦しみ、失望、挫折などを知らなければ人間の成長はありません。そして同じように苦しんでいる人に共感することはできません。仕事を失ったら焦り、脱力感もあり、挫折していく。別れを経験すると傷つき、心にポッカリ穴が開いて、やがて挫折していきます。(ときどき清々したと、別れた途端に元気になる人もいますけれど……。)愛する人を天国に送ったら、悲しいし、嘆きますね。そして挫折します。やはり泣くときが必要ですし、嘆き、悲しみ、その意味を考えることも必要でしょう。しかし、皆さんはもうお分かりだと思いますが、ずっとそうしていたらいいのではないのです。何年もずっとそうしていたら身体も心も蝕まれてしまいます。私たちには未来があります。そこに希望もまた生まれます。私たちは前に進むために生まれたのです。後ろを振り返るために存在しているのではないのです。ずっと顔を後ろ向きにして生きていくことができるでしょうか。私たちは前を見ていたほうがずっと楽でしょう。神の力を身体中に、心の隅々にいただいて、自分の足で立ち上がらなければいけません。

主イエスは言われました。10節です。

「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。

「希望は失望に終わることはない」(ローマ5章5節、口語訳)のです。私たちは主イエスを甦らせたのと同じ神の力を、あふれるばかりの光を、一身に受けてガリラヤへ行くのです。私たちのガリラヤとはどこでしょうか? 私たちが失望を希望に変えられてたどり着くところ、ゴールするところです。そこには主イエスが先に行って私たち一人ひとりのことを待っておられます。さあ、私たちも立ち上がって希望の扉を開きましょう。