イザヤ書42:1-9;マタイによる福音書3:13-17
今日この礼拝の中で、今年度成人された方々の祝福の祈りをしますが、私たちの人生のライフサイクルには、その節目、節目にセレモニーがあります。それが入学式であったり、成人式であったり、結婚式であったりするわけですし、キリスト者にとっては洗礼をうけて信仰の道を歩み始めたことも、とても大切な節目となったわけです。主イエスのご生涯を見るときに、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから、洗礼をお受けになったということも大きな節目でした。主イエスはそれまで、ナザレというところの大工として生活をしておられたわけですが、この洗礼を契機として人々の前で神の国の福音を宣べ伝えていくようになったわけです。主イエスが東方の占星術の学者たちに公現されたのち、1月第2の日曜日は主イエスの洗礼を記念します。
洗礼者ヨハネは、荒れ野に出て、人々に向かって、これまで神に背を向けて生きてきた生き方を転換して(悔い改めて)洗礼を受けるように促していました。ヨルダン川で一人ひとりの全身を水に沈め、新しい生き方を始めるスタートとなる洗礼を多くの人に授けていました。ある時、ヨハネのもとに集まってきていた人々に交じって、主イエスがガリラヤからやってきました。
しかし、ヨハネは洗礼を受けようとする主イエスを思いとどまらせようとするのです。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」(14節)
ヨハネがどぎまぎして恐る恐る主イエスに申し出ているかのようです。ヨハネは主イエスこそが自分の後から来て、聖霊と火による洗礼を授ける方だと知っていたからです。しかし、主イエスは「今は、止めないでほしい」(15節)と言ってヨハネから洗礼を受けることを望みました。ヨハネの眼から見て罪のない主イエスが悔い改めのしるしとしての洗礼を受ける必要がないと思ったのです。主イエスの希望通りにヨハネは洗礼を授けました。すると水から上がられた主イエスに天から鳩のように神の霊が降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(17節)という天からの声を聴きました。
神は罪ある人々と同じようにして洗礼を受けられた主イエスをこの上もなく喜ばれ、受け入れられました。主イエスが洗礼を受けられたということは神の子でありながら、私たち人間と同じように歩み、同じ目線で、同じ姿、同じ姿勢で、そして同じ立場で生きられた主イエスをよく表しています。それと同時に、自ら一歩進み出て、ご自分の意志で洗礼をお受けになったことで、天から聖霊が与えられた。もう少し判りやすく言えば自分で決断して進み行くところに神の祝福が与えられる、ということです。ただ待っているだけでは何も起こらないのです。一歩自ら進み出るところに神からの祝福は約束されていました。
このあと主イエスは荒れ野に出て、そして神の国の福音を宣べ伝えて行きます。12月の待降節の礼拝でも洗礼者ヨハネのことをお話ししました。彼は荒れ野に出て救い主の到来を人々に伝えました。
主イエスと洗礼者ヨハネは共々に、神の力である聖霊が与えられ、神の祝福を受けられました。私たちの生き方も、今日の箇所を読みながら振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。今、自分の前に敷かれたレールを走っていればそれでいい、あるいは暖かい部屋でゆっくり過ごせばいい、そのように思いがちです。一歩自分の置かれた場所から進み出ていく、すなわち行ったこともない「荒れ野」に出て行くことが求められているのではないでしょうか。そこで恐れることはありません。神は、皆さんお一人お一人を愛しておられて、主イエスのみならず、皆さんにも「(あなたは)わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言ってくださるのです。安心して進んで行って良いのです。
さて、主イエスの洗礼にならって、キリスト教会も2000年間、洗礼を大切に受け継ぎ、守ってきました。洗礼は聖餐とは私たちの教会の「いのち」とも言うべき礼典です。今日では礼拝の中で、祈りの言葉と共に頭に水を注ぐというやり方も多くありますが、教会などによっては、洗礼者ヨハネがそうしていたように川などであるいは海でや教会の中にある(浴槽のような)洗礼槽で全身水に浸して(浸礼=しんれい)を授ける場合もあります。
水というものは、自然の中で大きな力を持っています。近年は我が国も水害に多くの方々が見舞われました。水は多くを飲み込んでそれを滅ぼすという力もあるわけですが、人間が水の中に沈むといのちを落とす原因になります。それと同じように、洗礼によって水の中に沈められるということは、今までの自分が一度死んで、そして水から上がるときには、新しく生まれるということを意味しています。もちろん実際に命が途絶えて、それが甦るというのではなく、神の恵みによって、神を知らずに歩んでいたこれまでとはまったく違う、新しい自分に変えていただくということをあらわすのです。また水の力は、汚れたものを洗い流すというところにあります。私たちの日常を見ても、手を洗うことに始まり、洗濯や食器を洗うことや入浴に至るまで、この水の大切さはよく知っているでしょう。しかし洗礼はただ、汚れを落とすと言うものではなく自分の悪い部分や生活ときっぱり訣別することも表しています。よく悪しき習慣などを改めるときに「足を洗った」などと言いますが、この言葉にも今までのことをきっぱりとやめるというような意味もあろうかと思います。そして、「私はイエス・キリストと共に歩む」という決意を表すのが洗礼です。よく教会で「わたしはまだ洗礼を受けるような人間にはなっていません」と言う人がいますけれども、洗礼は入学式であって、なにか最後に免許証を与えるというような授与式のようなものではありません。自分が新しく神と共に歩むという決心の日であるのです。
さて、皆さんの中で洗礼を受けておられる方々はご自身の洗礼を受けた日のことを覚えておられるでしょうか。それはいつのことで、どこで受けられましたか。誰かが一緒にいたとか。授けた牧師は誰でしたか。その時、何を思いどう感じましたか。もっとも物心つかないころに親の信仰によって幼児洗礼を受けられ、記憶にないという方もおられると思います。しかし、その親の信仰による洗礼を自分のものとして受け入れた信仰告白式、堅信礼の記憶はあるでしょう。今日、主の洗礼を覚える日に、ぜひ自分の洗礼の日を思い起こしていただきたいと思います。
それは今日の箇所で、主イエスに向けて、「(あなたは)わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という不思議な天からの声が聞こえてきたわけですが、これは主イエスだけのことではない、皆さんお一人お一人も洗礼の瞬間に「神の愛する子」になっていたのです! そのことに私たちは気づいていたでしょうか? そして「わたしの心に適う者」というところを「私を喜ばせる者」(N .T.ライト)と表現した学者がいましたが、皆さんは洗礼によってキリストに結ばれて、キリストと二人三脚の人生を歩むようになりました。そして今朝、皆さんに天の神からメッセージが届けられました。「あなたも、わたしの愛する子、わたしを喜ばせる一人」なのだという天の声です。
主イエスもその活動のはじめに洗礼を受け、洗礼から力を受けていきました。洗礼によって皆さんの心に灯された光は、今も皆さんの心に輝きつづけています。皆さんが気づいていようといまいと、その光は消えることがありません。本人が、覚えていようといまいと、洗礼を受けた皆さんの魂では確かに、神の愛の光がずっと輝き続けているのです。最近洗礼を受けて輝き始めた人も、何年、何十年も輝いている人も、皆さんが眠っていようと、起きていようと、怒っているときも、嬉しいときも、心が冷えきっているようなときであろうとずっと神の光が輝き続けているのです。そしてこの私たちの身体が死んでもずっと輝き続けるのです。洗礼を受けたわたしたちは、そういう神の恵みを頂いているのです。ですから、気を落としたり疲れ果てたり、人と争ってイライラするようなときに、もしも救いの力がほしいなら、まずは自分の内なる光に気づいていただいたいのです。もしも生きる輝きがほしいなら、自分の内にすでに神からプレゼントされたある光を輝かせてほしいと思います。今まだ洗礼を受けていない人も、いつの日かそれぞれの心に神の光を輝かせてほしいと教会は願っています。そしてそれは決して消えない光なのです。
あなたも「わたしの愛する子、わたしの心に適う」一人なのだと神は今朝私たちに語りかけてくださいます。