「何事にも時がある」コヘレト3:1-8 中村吉基

コヘレトの言葉3:1-8;テサロニケの信徒への手紙(一)4:13−18

今日私たちは、先に天に召された聖徒の皆さまを記念しつつ、礼拝を捧げています。
3年ぶりに代々木上原教会に連なるすべてのご遺族の方々、関係者の方々をお招きし、こうして神を礼拝できるさいわいを感謝いたします。
この1年の間にも、4名の聖徒たちが天の父のもとへと旅立たれました。

さて、聖書の時代の平均寿命はいったい何歳くらいだったのでしょうか。
当時の一般庶民に関する資料はほとんどないと言ってもいいでしょう。しかし王が亡くなった記録は残っています。前926~597までの王たちの寿命を見ると、21~66歳(平均44歳)であることが分かっています。いわゆる「お世継ぎ」としていのちを特別に守られてきた王たちでさえ、こんなに短い生涯だったのです。ダビデ王朝の王で70歳を越えて生存した者はいません。もちろん、国々の争いや暗殺などがありましたが、平穏な時代においてもこうした寿命であったとすれば、一般庶民の平均寿命は、幼児死亡率が高いこともあって、かなり低いものであったことでしょう。つまり、多くの人たちは20代、どんなに長く生きても30歳前後で生涯を閉じたと考えられています。

そういった時代から考えてみますと、現代人は驚くほど長く生きるようになりました。私たち日本人は、長い間平和憲法によって戦争のない状態が続いています。食糧も豊かです。水もいいです。さまざまな要素が寿命を延ばす結果につながっていると言えます。

しかし、私たちが長く生きられるようになった人生には、楽しいことがあれば、苦しいことがあり、うれしいことがあれば、悲しいことが交互して続いていきます。残念ながら不幸や不運に見舞われないという人はいません。皆さんは何か嫌なことが起こると早くそういう状況から抜け出したいと思うことでしょう。「いや、こんなはずではなかった」「これは何かの間違いだ」と思われることでしょう。東日本大震災が起こった後からよく「想定外」と言う言葉を耳にするようになりました。実際に私たちも使うことがあります。けれども私たちの人生はいつでも「想定外」のことが続きます。
皆さんの人生を振り返ってみていただくと、予期しなかったことの連続で私たちのいのちのストーリーは書き綴られていきます。
先ほどお読みいただいたコヘレトの言葉です。

何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時/保つ時、放つ時
裂く時、縫う時/黙する時、語る時
愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。

もう私たちの人生の中で起こる、互いに反対の関係にある事柄がすべてここに書かれてあると言っていいのではないでしょうか。キリスト者だったら「殺す」とか「憎む」とか「戦い」などとも無縁ではないかと思われるかもしれません。でも私たちも一歩踏み間違えれば過ちを犯してしまう弱さを抱えています。すべては「想定外」ですから。でも神からすればすべては「想定内」です。それが「定められた時」なのです。

「コヘレト」というのはあのソロモン王のことではないかと考えている学者たちもいます。またもっと後の時代に他の人によって記されたのではないかという学者たちもいて諸説あるところですが、旧約聖書の中では「箴言」などと同じ知恵文学に属する書物です。人間だったら誰でもが持つ人生の空しさとか、なぜ自分がこの世に生まれてきたのだろうかとか、比較的読みやすいテーマで綴られています。しかし他の旧約聖書に収録されている書物と決定的に違うところもあります。それは「この世のすべてはあらかじめ運命によって定められており、決して変えることはできない」という考えに立っていることです。1節のところで「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と書かれてある通りなのです。

「何事にも時がある」とコヘレトは言います。
私は初めてカナダに行った時に、カナダ産の木材はきびしい冬の寒さで育っているので、とても「重厚で良質な」木材が産出されるのだと現地の人から聞きました。それと同じように私たちの人生にもさまざまな「時」や季節が必要です。厳しい時を経験することは「重厚で良質な」者とされる契機を与えてくれます。しかし、私たちは神ではありません。「限界」があることを知らなければなりません。創世記の中で限界があることを無視してバベルの塔を造って天までとどろかせようとした人たちは、自分たちが「神のようになれる」と自分たちの限界を認めようとしなかったために神の祝福を受けることができませんでした。私たちが「何事にも時がある」ということを予め知っておくことができれば、すべて自分の人生に起こることは「神のみ心」であると信じることができます。

コヘレトはまた2節で「死ぬ時」とも言っています。私たちの人生の終わりの時も定められていると言います。皆さんは自分の死がすぐそこにあるとはあまり思いたくないはずです。「死の時」も定められているのならば、確実にその日は私たちに向かって近づいています。「その日、その時を ただ神が知る」という歌詞の賛美歌(「球根の中には」)がありますが、それが明日なのか、何十年先なのか、神以外には誰にもわからないのです。しかし、確実にその日に向かっているのなら、やはり一日一日を大切にしようという気持ちになるのではないでしょうか。

「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」の「定められた時」というのは「神が与えてくださる時」のことです。私たちは一人ひとりの人生において神がくださる時の中を旅することが許されています。そして私たちは一人ひとりまったく違う神のストーリーの中を歩んで行くのです!

「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある」、私たちは神の時を今この時も歩んでいます。

そしてイエス・キリストもそのことをよく理解しておられました。主イエスは宣教の第一声でこのように仰せになりました。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。

これは言い換えれば「いよいよ神の定められた時が来た」。福音が告げ知らされる時が来た、というものでした。
私たちの人生はすべてのことが神の「時」の中で進められているのです。