出エジプト記16:11-16 ; ヨハネによる福音書6:1-15
要約
時は過越祭が近づく季節の昼下がり。イエスはガリラヤ湖の湖畔に来られ、向こう岸に渡りました。そして、その姿を見た大勢の群衆も、イエスの後を追い、ぞろぞろとついて行きました。それは、すでにイエスが行っていたしるしを、人々も知っていたからでした。誰かが「なぜあの方の後を追うのですか?」と聞いたものなら、「君は何も知らないのか?あの人はベトザタで、38年もの間、病気に苦しんでいた人をいやしたらしいぞ」、「私は足が不自由だったのに、あの方と話した後に起き上がり、床を担いだ人を知っているわ」などと話していたかもしれません。ついて行く人がいれば、またそれを見てついて行く人ができる。まるで雪だるまのように膨らんだ大勢の群衆が、イエスの後を追っていき、ついに男だけでも5000人ほどの人になったのでした。
イエスも当然、自分の後を追う群衆に気づいておられました。その人々の姿を見て、フィリポに「どこでパンを買えばよいだろうか」と問われました。大勢の人々との大移動で時間も夕暮れ時になり、食事の心配をされました。問われたフィリポは、イエスの心情は分かるものの、単純に計算することに焦っただけではなく、「なぜ集まった人の食事を、自分たちが準備しなければならないのか」と思ったかもしれません。フィリポは「めいめいが少しずつ食べるにも、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。
200デナリオン分のパンとは一体どれくらいでしょうか。1デナリオンが1日働いた分の賃金だと言われています。仮に分かりやすく1日の賃金を5000円と考えれば100万円。1日の賃金を1万円と考えれば200万円。それほどのお金があったとしても、集まった人たちを満足させられない、どんなに少なく見積もっても成す術はないことをフィリポは伝えたのでした。弟子たちや周囲の人たちは、今まさに食事をどうするのかについて、イエスとフィリポが話し合っていることに気づいていきました。
ちょうどその時、もう一人の弟子アンデレが一人の少年に出会いました。この少年は勇気を出して、「僕は5つのパンと2匹の魚を持っています」とアンデレか、もしくは周囲の人に話かけたのでしょう。その手には質素なパンと調理された魚がありました。しかしアンデレの反応は温かいものではありませんでした。アンデレはイエスにこう言います。「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
アンデレは「何の役にも立たない」と言いました。確かに、現実を見たらそうかもしれません。200日分の賃金に相当する金額のパンを必要としている中で、5つのパンと2匹の魚ではあまりにも少なすぎました。正に焼け石に水。大海の一滴にすぎない。そんなアンデレの苛立ちと諦めが醸し出されています。少年は勇気を持って差し出したにもかかわらず、そのような態度を取られてしまいました。しかし、その後、イエスはパンと魚を取り、感謝の祈りをした後に人々と分かち合いました。奇跡は、差し出し、分かち合うことによって始まるのです。
私たちが行っている、野宿を余儀なくされている方々への食事の支援活動は、正にこの、ヨハネの給食にだけ出てくる一人の少年のようだと感じています。日本の貧困の状況を考えれば、焼け石に水。大海の一滴に過ぎない活動です。しかし、私たちはこの少年のように、自分の持っている精一杯をイエスの元に差し出したいと願い、活動しています。
(中略)
奇跡は、差し出し、分かち合うことによって始まります。「何の役にも立たない」と言われるようなものであっても、誰もが到底足りないと思っていても、分かち合い始めると今度は12の籠いっぱいに余剰が出る。分かち合うことをはじめて、私たちはようやく、足りるということを知るのです。
そして差し出されたものを主は用いて、奇跡を行いました。この少年は、自分の精一杯を差し出した結果、主に用いてもらえて、本当に嬉しかったと思います。私たちもこの少年のように、勇気を持って、私たちのできる精一杯を差し出していきたいと願っています。それは貧困問題の根本的解決にはならず「何の役にも立たない」、「焼石に水」と言われるかもしれません。しかし、そのような小さな精一杯の先にしか「日毎の糧を与えたまえ」という主の祈りを実現することはできないのです。
私たちが主にあって、それぞれの精一杯を差し出し、主に用いていただく。そのような歩みを、今日も、今週も、歩んで参りましょう。