「新しいエルサレム」黙示録21:1-4.9-14 廣石望

エゼキエル書40:1-4; ヨハネの黙示録21:1-4.9-14

I

 大きな災いが人々を襲うとき、そこには何らかの意味で「人災」の要素があると感じる。

 地球規模の気候変動に温室効果ガスの大量排出が影響しているなら、それは産業国のエゴだ。福島の原発事故は地震と津波がきっかけだった。しかし、そもそも都市部の電力需要を満たすためという名目で、多くの原発が地方に建設された。パンデミックの成立条件には原生林を含む自然破壊、大都市への人口集中、人とモノの高速大量移動が含まれる。ならば、単なる自然現象ではない。そして戦争や差別は人災の最たるものだ。

 こうして、一部の富める権力ある人々が身勝手に描いたストーリーのせいで、世界の人々の上に、無数の死と悲しみと嘆きと痛みが降りかかる。

 ヨハネ黙示録は紀元1世紀末ころ、小アジア(今のトルコ)のエーゲ海沿岸地域で書かれた。当時この地域はローマ帝国による支配の影響が強く、現地エリートは皇帝崇拝というツールを使って、自らをグローバルネットワークの中に組み込もうとしていた。黙示録の著者はそこに鋭い眼差しを向け、天空から降臨する「新しいエルサレム」という対抗的な神話のヴィジョンを描く。

 その特徴に注目することで、私たちの夢の目指すべき方向性をごいっしょに考えたい。

II

 先ず、この都市の形状と大きさに注目したい。

 都市は正方形で、縦横3本ずつ、合計6本のメインストリートと、合計12の城門をもつ。正方形の一辺は「1万2千スタディオン」(16節)、つまり約2,200kmもある。そればかりか、この都市はじつは正立方体である(16節「高さ」も同じ)。つまり地中海世界をすっぽり覆ってしまうほどの巨大なルービックキューブのような大きさだ。イマジネーションの産物と言うべきであろう。

 ヨハネはそれを「新天新地」の幻として語る。ならば私たちも想像力を働かせて、「新しいエルサレム」とは真の世界、あらゆる命が共に暮らす「本当の地球」と考えてよいのではないか。

III

 次に、都市の建設資材を見よう。

 この都市の「城壁」は碧玉、「都市」そのものと「道路」は純金、「城壁の土台」は碧玉、サファイア、めのう、エメラルド、赤縞めのう、カーネリアン、かんらん石、緑柱石、トパーズ、緑玉髄、青玉、紫水晶、そして12の「城門」はそれぞれが巨大な一個の真珠である(20:18-21)。都市は、とても高価な貴金属でできている。

 これまた夢のような話だが、ヘレニズム文化には同様の叙述があり、文化的価値が共有されているのだろう。

 ところで黙示録によれば、これら貴金属は「娼婦バビロン」と呼ばれる都市ローマに出入りする「商人たち」が扱う商品だ(黙17-18章)。しかし新しいエルサレムで、これらの建材は市民たちの共有空間のために使用される。メインストリートの中央を流れる「命の水の川」と、その脇に育つ「命の木」の実りも無償で提供され、その「葉」は「諸国の民」の病を癒す(22:1-2)。

 ここからは、地球の貴重な資源は一部の人々に独占されてはならず、無償の共有財産であるというメッセージが聞こえる。

IV

 かつてのエルサレムを含め、古代都市には必ず「神殿」があった。

 黙示録の「新しいエルサレム」のイメージは、エゼキエル書の描く「新しいエルサレム」の系譜に属する。エゼキエルの都市の大きな特徴は、神殿都市であることだ。その図面にはヤハウェ神のための神域があり、他の区画から区別される。さらに祭司団のための空間が居住区の4/5を占め、一般市民には1/5だけだ。

 これに対して、黙示録のエルサレムには、驚くべきことに神殿が存在しない。「私は、この都の中に神殿を見なかった」(21:22)。むしろ「全能者である神、主と子羊が神殿」だという。そして「神と子羊の玉座が都(の中)にある」(22:3)というものの、そのための区画は特定されない。とくに祭司団も存在しない。

 これは、どういうことか? かつてエルサレムに実在したヤハウェ聖所の「至聖所」が正立方体であったことが想起される。つまり都市全体が、神の現臨の場とイメージされているのだろう。冒頭に「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となる」(21:3)とあるのも、この意味だ。

 新しい世界、真の地球は神の聖所そのものだというヴィジョンが、ここから見えてくる。

V

 最後に、住民たちはどのような存在として、ここで暮すのだろう?

 「神の奴隷たちが(玉座の)神を礼拝する」(22:3)とい君主的イメージと、人々が「永遠に支配する」という民主的イメージの両方が現れる。「子羊の命の書」(21:27)が市民名簿に当たる。二つを合わせて、神を礼拝することで、全住民が市民権を有する者として、この都市を永遠に統治するという意味だろう。

 「神と子羊」は、その全体が聖所であるこの世界にとって統合の根拠であり、臣民を隷従させる王権ではない。したがって「軍隊」にも言及がない。むしろ住民全員が市民であり、かつ祭司だ。

 去る7月25日の礼拝で、宮島牧人牧師が、日本で「不法滞在者」として入管収容所に入れられた人々について話されたことを思い起こそう。

IV

 黙示録が描く「新しいエルサレム」のヴィジョンと、私たちが生きる世界はずいぶん異なる。

 私たちの世界には、私有財産を神聖視する資本主義にもとづく富の独占、そして巨大な貧富の格差があり、自分たちを特別な存在と考える民族主義があり、軍事力を振りかざす独裁者や強権的な政治権力があり、市民権をもたない人々がおり、さらには信者の有り金を巻き上げるカルト宗教と選挙で勝ちたい政治家の癒着がある。

 とても悲しいことだが、同じようなことは黙示録の時代にもあったろう。皇帝崇拝は巨大な利権をもたらし、商人たちははびこり、市民権の有無は存在し、ローマ軍は属州アシアにも駐屯していたのだから。

 それでも黙示録の著者は絶望しない。この人は、むしろ「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや悲しみも嘆きも労苦もない」という真の世界を夢見た(4節)。私たちも小さくされた人々の悲しみや嘆きに思いを寄せながら、「新しいエルサレム」にその場所をもたない悪に抗いつつ、真の世界を夢みたい。