列王記上17:17-24; マルコによる福音書5:21-24a.35-43
I
今の世界では、弱い立場の人々の命が軽んじられている。
パンデミックの中で、世界に医療格差があるのは周知のとおりだ。最近の報道では、2020年3月から今年6月までの間の日本で、コロナ禍の影響下で自死した人が推計で約8000人あり、その中で最多なのが20代女性であり、19歳以下の女性も多いとのこと(共同通信8/17)。非正規雇用や行動制限などが与える深刻な経済的・心理的な打撃から、彼女たちは守られていない。
ロシアのウクライナ侵攻が開始されて、半年になろうとしている。かつては兄弟国と名乗っていた隣国の軍隊がウクライナの多くの町々を瓦礫に変え、多数の民間人を殺害している。TVで見た、逃げ込んだ地下壕で「死にたくない」と涙を流す少女の姿が忘れられない。ロシア軍は、辺境の貧しい共和国出身の兵士を多く戦場に送り込んでいるそうだ。おそらく自軍の兵士の命も大切にされてはいまい。
まるで死が命をあざ笑っているかのようだ。
キリスト教会は、キリストの復活を信じる者たちのコミュニティーだ。イエスがどのように小さな命を守ろうとしたのか、また復活信仰とは何なのかを、福音書が伝える死者蘇生の奇跡物語を手がかりに、ごいっしょに考えたい。
II
会堂長ヤイロスの娘の蘇生の物語は、現在あるマルコ福音書では「出血の止まない女性の癒し」の奇跡物語を、前後からサンドウィッチ式に囲い込む仕方で配置されている。先ほどは、その真ん中部分を省略して朗読した。
物語は、最初は口頭で伝承されたであろう。その原型は、会堂長ヤイロスがイエスに娘の治癒を求め(導入)、イエスは人々の嘲笑にも怯むことなく、人祓いをして少女のもとに到達し(提示)、その手をとって「起きよ」と発話して蘇生させる(中央)。そして目撃者たちは大いに驚愕し、イエスは少女に食事を与えるよう彼らに命じた(終結)――というものであったろうか。
III
現在あるマルコ版の物語では、「提示」場面、つまり奇跡行為者が被治癒者にたどり着くまでを描く場面が、〈後退〉と呼ばれるモティーフによって拡大されている。イエスはヤイロスの要請に応じて同行するのだが、次々にじゃまが入るのである。
まず「群衆」がイエスに押し寄せる(24節)。次に出血のやまない女性の治癒が割って入る(25-34節)。続いてヤイロス宅から少女死去の知らせが届き、もはやイエスを煩わせるには及ばないという意見が出される(35節)。それでも、ようやくヤイロスの自宅に着くと家の中は騒然としており、「子どもは死んだのでなく、眠っている」と言うイエスを、人々は嘲笑する(38-40節)。
これらの障壁を、しかし、イエスはそのつど乗り越える。ヤイロスには「(君は)ただ信じよ」と激励し(36節)、途上では群衆と側近以外の弟子たちを排除し(37節)、またヤイロスの家ではイエスを嘲笑する家人たちを排除し(37-40節)、娘の両親と三人の弟子たちだけを連れて、ついに「子ども」の安置された空間に入る(40節)。
そして、イエスは「子どもの手をつかんで、彼女に言う、『タリタ、クーム』――これは翻訳すれば『少女よ、君に私は言う、起きなさい』。そして少女はすぐに立ち上がった」。このできごとを目撃した者たちは「大いなる脱自によって脱自した」という(41-42節)。
IV
こうした物語に、近代自然科学に基づく合理主義的な世界像をもつ私たちは、すぐに「そんなことは科学的・医学的にありえない」と反発し、古代人の迷信として片づけたり、怪しげな宗教プロパガンダに分類したりする。
しかしながら、近年の文化人類学的な解釈によれば、奇跡の存在や形態は社会文化的に規定される。つまり、じっさいには重病を患った少女の幸運な健康回復であったとしても、死者に命を与える神という観念が生きている文化の中では、この物語は現在あるかたちで成立できたのである。
注目したいのは、そこに、古代人の現実理解を揺さぶる要素が込められていることだ。イエスは人々の嘲笑に抗って少女を蘇生させる。そのさい彼は少女の手に触ることで、死体に触れた者は穢れるという文化規範を破る。この常識的な現実理解を超えるという要素が、現在あるマルコ版では、イエスが次々と現れる「障壁」を突破し、人祓いを重ねた末に少女のもとに至るという演出を通して強調されている。
そもそも新約聖書の奇跡物語は、近代合理主義が得意とする通信技術や遺伝子操作などの「現実操作」の水準ではなく、私たちが生活世界の中で何者として生きるかという「方向定位」の水準で大きな変革――現代人もそれを「ミラクル!」と呼ぶのをためらわない――を促すために伝えられた。
この物語もまた、たんにセンセーショナルなだけのできごとを、ニュースとして伝えるものではない。そうではなく、イエスは死の限界を破ることで、死への接触禁忌という文化規範をも超えて、すべてを新しくする「神の王国(/支配)」の到来を現実化した。この神に、私たちは信頼しようと呼びかけているのである。
そのとき、「君は恐れるな。ただ信じよ」とイエスに叱咤激励された父親ヤイロスが、ずっと無言でイエスの後につき従っているさまが、とても印象に残る。
V
イエス・キリストのできごとを思想的に一段高い水準で省察するヨハネ福音書では、同じく死者蘇生の奇跡物語であるラザロの復活の場面で、イエスがマルタにこう問いかける。
私こそは立ち上がり、そして命だ。私を信じる者は、死んでも生きるであろう。そして生きて、かつ私を信じる者は、永遠へと死ぬことが決してない。君はこのことを信じるか?(ヨハネ11:25-26)
ヨハネから見て、復活信仰とは神の命を与えるイエスへの信頼に他ならない。
また、私たちの物語で、「タリタ・クーム」とアラム語で少女に呼びかけるのと同様に、ヨハネ福音書のイエスは、墓の中のラザロに向かって「ラザロよ、ここへ外に!」と大声で叫ぶ(ヨハネ11:43)。そして、こう言われている。
アーメン、アーメン、君たちに私は言う。時が来る、そして今がそうだ、(すなわち)死者たちが神の息子の声を聞き、聞く者たちが生きるであろう時が。(ヨハネ5:25)
イエスが呼びかける声を聞き、神の命から「生きる」ようになるとき、私たち自身が、命をあざ笑う死の現実に、今ここで抗うことができるようになると信じたい。