「たましいの食事」ヨハネ21:1-14 中村吉基

詩編30;ヨハネによる福音書21:1−14

今日の箇所は復活の主イエスが、ティベリアス(ガリラヤ)湖畔で炭火を起こし、魚を焼いて、パンも用意されている。主イエスは十字架にお架かりになる前の晩に、御自ら弟子たちの足を洗ってくださったことを彷彿とさせますが、ここでも主イエスが弟子たちをもてなしてくださっています。漁に出て疲れていてへとへとになっている弟子たちを優しくいたわってくださる主イエス。なんと愛に満ちたお姿でしょうか。私たちもその食事を共にさせていただきたいと思わないでしょうか。

しかし、羨ましくこの光景を頭の中に描く必要はありません。なぜなら主イエスのもてなしやいたわりは今この礼拝の場でも、皆さんを交えて繰り広げられているのです。主イエスはもう3度も弟子たちの前に現れています。弟子たちは、夜明けに岸に立っているその人が主イエスだとは分からなかった。けれども、食事に招かれた時に「あなたはどなたですか」と誰も聞こうとはしなかったのです。その時には誰もが、そこに居られる方は主イエスだと気がついていたからだと聖書は言います。

私たちもそうです。毎日の生活の中で、忙しくて、時間が無い時、疲れていて思考できない時、傍らに一緒に居てくださる主を忘れてしまいます。イライラする時、頭に来ることがあった時、心が乱れている時、私たちは主の存在を忘れています。私たちは岸に立っている主イエスが誰なのか分からない弟子たちにとても似ているのです。しかし、主は一度だけそういうことがあったからと言って決してお見捨てになりません。何度も何度も私たちに近づいて来られて、それに私たちが気がつくのを待っておられるのです。そしてその時に私たちに必要なみ言葉を、あるいは恵みをくださるのです。

私たちは今日の礼拝でも、聖餐を祝います。パンと杯は厳粛な雰囲気の中に守られるべきものでありますが、決して陰気な、暗い食卓ではなく、明るく、楽しく、喜びながら主の「見えない恵みの見えるしるし」(アウグスティヌス)として救いの出来事を祝いたい。そして私たちとキリストの神が結ばれ、また私たちの一致のしるしとしてパンと杯を祝うことを重んじていきたいという思いが込められています。

実は私たちがキリストのからだと血であるパンと杯を受けるとき、皆さんの手の中に主イエスが来てくださっているのです。今日の箇所のティベリアス湖畔の朝の食事の出来事が、今ここで、この教会においても起こっているのです。私たちはそろそろ気付かなければなりません。今日は復活節第3主日です。もう主イエスの復活を祝ったイースターから3度目の復活を私たちも経験しているのです。朝の光の中で、礼拝をささげ、聖餐を共に祝う時、主イエスが今ここに、皆さんの傍らに、皆さんの手の中、いや心の中に生きてくださっているのです。

もう30年近く前のことになりましたが、私が初めてニューヨークに行った時に、「ソウルフード」というものを食べました。アフリカ系アメリカ人たちの郷土料理です。その時にはニューヨークで食べるもの、ほとんど口に合わずに私は食傷気味になって、やせこけて日本に帰ってきたのですが、ソウルフードは美味しかったことを憶えています。それはハーレムといういわゆる「黒人」(アフリカ系)の居住区のレストランでゴスペルの生演奏を聞きながら食べたのでどこかのご家庭でいただいたというものではありませんでした。

しかしその時に聞いた話によると、最初に白人によって、奴隷として連れてこられたアフリカ系の人たちは、白人の食べた物の残飯を調理しなおして食べていたということでした。それがソウルフードになっていきました。今は日本でも郷土料理にこの言葉が使われるようになりましたが、私は「ソウルフード」と聞くと今でもアフリカ系の人たちの嘆きとか、貧しさとか、悲しみとか込められているような思いがします。それと同じように主イエスの用意してくださる食事もまた私たちにとっての「ソウル(魂の)フード」なのではないでしょうか。マザー・テレサはこういう言葉を遺しておられます。

「ミサ(礼拝)は、わたしを支えている霊的な糧です。ミサなしでは、わたしは人生の1日も、あるいは一時も過ごすことができなかったでしょう。ご聖体のうちに、わたしはキリストをパンの形で見ます。スラムでは、キリストを貧しい人々の心痛む姿の中に見ます。傷ついた体、子どもたち、そして死にかけた人々の中にです。だからこそ、わたしはこの仕事ができるのです。」

カトリック教会ではどこの教会でも修道院でも毎朝ミサが捧げられます。このミサで頂くパンの形をとった主イエスが一日を生き抜く原動力になっているとマザー・テレサは言っています。私たちは第1日曜日の礼拝でパンと杯を分かち合っておりますが、ともすれば、形骸化してしまう危険があります。主イエスの出来事を祝っている時に何の感動もなくなってしまう。今この場所に主イエスがいらっしゃることすら感じなくなって、見えなくなってしまう。私たちはその形骸化の誘惑、罪から解放されなければなりません。それには私たち1人の力では無理なのです。聖霊の力が必要なのです。だから主イエスは十字架にお架かりになる前に、「別の弁護者」と呼んで聖霊の存在を明らかにされたのです。

さて、昨年出させていただいた著書の中でも紹介しましたが、北米の教会で歌われている“Part of the family”(みんな神の家族)という賛美歌があります。

おいで、こっちに来て座りなさい。
あなたも家族なのだから
私たちはみんな迷い出て、そして見つけ出された者たち
みんな神の家族なのです

(1)
あなたは知っているでしょう、なぜここに来たのかを
すべてを説明できないかもしれないけれど
だから共に笑い、つらい時は共に泣こう
みんな、神の家族なのだから
神はここにいる。私たちと共に 
まるで母の温かい抱擁のように
私たちはみな神の恵みによって赦されている
みんな神の家族なのだから。

(2)
子どもも老人も、中年も10代も
独りぼっちもカップルも、どちらでもない人も
がんこな85歳も生意気な16歳も
みんな家族なのです
迎える人、新しく来る人、長くいる人、新しい人
ここでは誰も決まった席はない。
人が多かろうが、ほんの少しだろうが、
みんな神の家族なのです

(3)
パンとぶどう酒で分かち合ういのちがある
私たちは枝で、キリストはぶどうの木
ここは神の宮。あなたのものでも、私のものでもない
それでも神の家族なのだから
ここには疲れた人も、健康な人も、すべての人が安らげる
くびきは負いやすく、荷は小さくて軽い
だから共に来て礼拝しよう 招きに応えよう。
みんな神の家族なのだから。

(©️James K.Manley)

いつも私たちの教会がこの詞のようにあるべきでしょうし、それを目指していきたいものです(「家族」という言葉に抵抗を覚える人もいるでしょう。たとえば「仲間」とか、他の言葉を代入して読んでみてください)。

今日の箇所で大漁だったペトロたちの記事を読むときに、それらの人々が主イエスに弟子として招かれた時にも同じことがあったことを私は心に留めています。11節にはその獲れた魚の数が153匹だったと記されていますが、一説によれば当時の世界で知られていた魚の種類は153種であったということです。これは「主イエスの救いには誰ももれる人がいない」ということでもあり、「キリストの弟子である私たちがすべての人に主イエスの愛と救いを告げていきなさい」というメッセージではないでしょうか。私たちの教会もそのような温かい主イエスの愛に満ち満ちた教会になることができるように、そして温かい「たましいの食事」を提供することのできる教会になりますように!