「一歩、前へ」ルカ5:1-11 2022/02/06 中村吉基

イザヤ書6:1-8;ルカによる福音書5:1-11

今日の説教題は「一歩、前へ」。

教会前の掲示板で自分でこの説教題が書かれているポスターを見ていて、どこかで見たことのある言葉だと思いました。男性の方はよく知っているでしょう。男性用のトイレの中でよく目にする言葉です。私が先日利用したトイレにはたしかこう書いてありました。

「一歩前へ、目標を定めて発射!」

私は結構気になる性格ですから、ネットでいろいろと探してみました。

そうすると

「一歩前へ、その積極性があなたの人生を変える」

たしかにそうでしょう。これは本当に、トイレには紙もありますが、神もいらっしゃった!

「一歩を踏み出せば何かが変わる」

そうでしょう。そうでしょう。

「何事もチャレンジ精神、一歩前」

礼拝でご紹介できるのはこのくらいです。あとはどうぞお宅のパソコンからごらんください。

さて、今日の箇所にはシモン・ペトロという人が登場します。ペトロの仕事は、漁師でした。漁から戻ったペトロたちはいつものように網を洗っていました。これは漁がある日には毎回営まれていたごく普通の光景でした。そこに突然主イエスが現れてこう言いました。

沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい(4節)。

「なんだこのおっさんは」と思ったかもしれません。ペトロたちからすれば、この見知らぬ男がやってきて唐突にこんなことを言われては、かないません。ペトロたちは漁師です。それに対して主イエスは素人です。ガリラヤ湖のことも、風の状態も、魚の習性もペトロたちには自分たちの感覚でよく判っていたはずなのです。しかし、そのような漁師たちに「舟を沖に漕ぎ出しなさい」とはいったいどういうことなのでしょうか。びっくり仰天しながら、それでもペトロは言いました。

先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう(5節)。

ペトロは主イエスのことを「先生」と呼んでいます(8節では「主よ」)。この見知らぬ男、しかしながら主イエスの評判はどこかで聞いていたかもしれませんが、でもこの人は、今まで自分が出会ってきた人たちとは何かが違う、と咄嗟に感じたのかもしれません。そしてその先生が言った「お言葉ですから」網を降ろしてみましょう、と言うのです。主イエスから溢れている光、愛、力と言ったものがペトロを輝かしたのではないでしょうか。おそらくペトロは主イエスに見たはずです。福音書はそのことを描いていませんが、彼らを動かすものがあったのでしょう。

「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。

今主イエスがここに来てくださったなら、皆さんにはこのように言うことができるでしょうか。今日はたまたま魚が獲れなかったというわけではない、さまざまな要因が重なって獲れなかったとプロの漁師ならば分析していたかもしれません。私たちが漁師であったならば、「イエスというお方、素人がそんな無駄なことやってもダメですよ。今日はまったく魚が獲れなかったんですから」と、やる前から諦めていたり、心の中であざ笑っていたかもしれません。しかし、主イエスの言っていることに賭けてみようと彼は思いました。

「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。

私たちの人生には、予期もしないようなことが無数に起こります。神は皆さんの人生にたくさんの奇跡を起こしてくださいます。ペトロたちの降ろした網は破れそうになるほど大漁になりました。ペトロのこれまでの経験が覆される出来事でした。仕方ありません。ついさっきまで魚は獲れなかったのですから。しかし今は網から溢れんばかりの魚を目の当たりにしています。ペトロの中で何か根底から揺さぶられるものが込み上げてきたことは言うまでもありません。何かが違う、自分が経験してきた、当たり前だと思ってきたことを超える力が働いている。そのように感じていました。そしてそのことを素直に受け容れるのです。この出来事に彼も、彼の仲間達も一様に驚きました。

そして「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った」(8節)。

この告白はこれまでの自分の行いを反省して「罪深い」と言ったのではないのです。自分の経験や価値観にあまりに過信してしまうあまり、自分の考えや思いだけが正しいと思って行動してしまう私たちが、神の恵みの力によって揺り動かされ、最後には崩された瞬間なのです。神の救いが自分に勝った瞬間です。新しく生まれ変わったペトロに主イエスは大きな使命を授けます。それは魚ではなく、「人間をとる漁師」になりなさい、というものでした。主イエスは、ペトロたちに新しい生き方を授けました。それまでは細々と漁師をしながら、貧しさやローマの重税に苦しむ人々でありました。しかし、「人間をとる漁師になりなさい」と新しい生き方を示されたのです。これはペトロたちが経験した喜び、嬉しさ、楽しさを自分たちだけで貰い受けてしまうのではなく、同じように貧しさや苦しさにあえいでいる人たち、自分の経験や価値観などしがらみのなかで足を掬われて動けなくなっている人たちを、今度は新しい生き方を授けられたペトロたちが伝えていくのですよ、と使命を授けられたのでした。

「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。

小山薫堂さんという人がいます。あのアカデミー賞を受けた映画『おくりびと』の脚本や「くまもん」の仕掛け人となった脚本家・放送作家の方です。小山さんには苦い思い出があります。それはホテルのレストランでお友達と待ち合わせをしていた時のことでした。隣の席にあるアメリカ人と思しきおじいさんが座りました。その方は小山さんのほうをチラチラ見ています。何か話したそうなおじいさんでしたが、小山さんのほうは、もしも自分の英語が通じなかったら恥ずかしいといろいろと考えているうちに待ち合わせていた友人がやってきてしまいました。その翌日、テレビを見ていた小山さんはびっくりしてしまいました。昨晩隣りに座ったおじいさんは、名優クリント・イーストウッドさんだったのです!あの時、少しだけ勇気を絞って話しかけていれば、何かが変わったかもしれない。もしかしたら、クリント・イーストウッドさんとハリウッドで仕事をするきっかけになったかもしれない、と嘆いたのだそうです。

今のお話は一歩も動かなかった時のこと。もう一つ、小山さんにはこんなこともあったそうです。その後、お寿司屋さんでアメリカ人に遭遇します。今度は勇気を持って彼に話しかけました。そうすると二人は意気投合して、楽しい食事が出来ました。後日メールが来て、「LAに来たら、ぜひうちに寄ってくれ」という内容でした。小山さんは映画『おくりびと』がアカデミー賞にノミネートされ、LAに行った際にこの方のお家を訪ねました。行ってみるとビバリーヒルズの大豪邸です。この人は小山さんに「授賞式の当日はスタッフとぜひ、ウチでパーティーをやろう」と提案しました。そして当日素晴らしいパーティーが開かれて、授賞式のテレビをみんなで見ながらオスカーを得た瞬間をこの幸せなパーティーの中で迎えるという「夢のような時間」を手にします。もしもあのお寿司屋さんで彼に話しかけていなかったならば、この夢のような瞬間もまったくなかったわけです。小山さんはこう言っています。「やらないなら、チャンスはゼロ。でももしやるほうを取れば、ゼロかもしれないけれど、ゼロではない可能性がある」。

「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。

今日主イエスは、皆さんに「一歩、前に」進みなさい。あなたが座っている場所から立ち上がりなさい、と私たちに「新しい扉を開くことへと招いて居られます。どうか主のお言葉に応えて、まずは今日から始まる新しい一週間に「一歩」を踏み出していく私たちでありたいのです。

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