復活後第1主日礼拝
復活後第1主日礼拝 午前10:30 司会・説教:秋葉正二 奏楽:中村今日子 前 奏 (黙祷) 招 詞 ペトロ一 1,3 讃 美 歌 323(喜び祝え、わが心よ) 交 読 詩編116(讃美歌巻末「交読文」p.128) 旧約聖書 創世記32,23-33 (旧p.56) 新約聖書 ルカ福音書24,13-27 (新p.160) 祈 祷 説 教 「神と格闘する人」 祈 祷 讃 美 歌 90(主よ、来たり、祝したまえ 献 金 主の祈り 93-5A 頌 栄 28(み栄えあれや) 祝 祷 後 奏
- 教会学校 9:00「みんなの輪の中に」(マタイ6,28) 村上典子
- オリーブ会(CS分級時) A会議室
本日の集会
- 「教会総会」 礼拝後、12:15-14:30 会堂
今週の集会
- 祈り会 4月26日 10:30-11:30 A会議室
次週礼拝等(2017年4月30日)予告
- 復活後第2主日礼拝 −労働聖日−
聖書:イザヤ53,6-9,ペトロ 一 2,20b-25
説教:「苦難のしもべ」
司会・説教:秋葉正二
奏楽:鈴木伶子
讃美歌:513, 328, 29
- 教会学校 9:00「明るい光を」(エフェソ5,8) 土田潤子
- 礼拝後、予定なし
集会予定等(詳細は掲示でご確認ください)
(教会内)
- 「定期役員会」 5月7日(日)12:15-14:30 A会議室
- 「聖歌隊練習」 5月14日(日)11:45-12:45
(教会外)
- 5・3憲法集会「施行70年平和といのちと人権を」 5月3日(水,祝) 11:00-16:00 有明防災公園
- 「共謀罪に反対する宗教者・信者全国集会」 5月31日(水)14:00より日本教育会館
お知らせ
- 「第76回東京教区総会」 来たる5月30日(火)10:00-19:00の日程で、富士見町教会において開催されます。議論がないことを裏付けるように一日で終了です。
牧師室から
明治学院大学名誉教授の阿満利麿(アマトシマロ)氏が『日本精神史 自然宗教の逆襲』を出版された。本書によれば、昭和天皇の「人間宣言」は、私たちの世代には当然のこととして受けとめられてきたが、当然ではないというのである。実は天皇制を根底で支える国民感情はほとんど変わらないまま、天皇は「生き神」としてあり続けているという。著者はこのことを説明するために「自然宗教」という概念を用いている。宗教の分類の仕方はいろいろだが、自然宗教は、民族宗教や原始宗教のように自然発生的なものを指す。アニミズムや呪術的宗教と一応は見てよいだろう。これはキリスト教とは相入れまい。
キリスト教は中世の神学に代表されるように、人間本来の理性に基づいて探求されてきた。キリスト教神学の体系は膨大なものである。自然宗教は自然教とも言われるように、人間の宗教的性質に由来し、極めて感情的である。日本には仏教のように1500年も前から立派な教義を備えた外来宗教があり、数々の優れた宗教者をも生み出してきたのに、いつの間にか自然崇拝や多神教に取り込まれていくのは何故なのか、といった疑問に本書はヒントを与えてくれる。仏教やキリスト教のような創唱宗教が伝来しても、「自然宗教」は温存されて、天皇崇拝を支える基盤となってきた、と指摘するのだ。
著者によればこの「自然宗教」を克服しようとした人物として挙げられているのが法然である。法然の仏教は、人間は誰でも「凡夫」だというところから出発し、阿弥陀仏の誓願を信じて念仏すれば必ず往生できるというもので、世俗のいかなる価値よりも救済原理を優越させている。その背景にあるのは現世と浄土という二つの世界であり、天皇に代表される現世の支配者を相対化する論理であったと指摘するのである。法然の他にはこの世の支配者を相対化せんとした仏教者もいたろう。
私はもう一度、加藤周一氏の『日本文学史』を読もうと思った。(私見によれば加藤氏の著作は「日本宗教史」といった方がよい)。聖徳太子やその後の天皇が仏教によって国を治めんとしたにも拘らず、いつもその方向性がズレていくのは、「自然宗教」としての「天皇制」が登場するからである。南北朝の歴史などはそこで起こる出来事自体はすこぶる興味しろいのであるが、そこで感じるのはなぜ登場人物のすべてが後醍醐や大塔の宮をあそこまで祭り上げるのかといった疑問であった。時代をリードしていった人物のほとんどが「自然宗教」としての天皇制の力(呪縛)に絡め取られたというのがその答であるような気がする。
空海のような傑出した宗教者でさえもその力には抗えなかったことを思うと、この呪縛は凄いものである。法然死後、教団が形成される段になると、普遍性は失われ、「自然宗教」が幅を利かせるようになったことはご存知の通りである。現世志向が強くなると、それはいつしか国民感情にまで高まり、その基盤の上に天皇制はどっかりと座を占めるというのが著者の指摘であるが、これを現代のキリスト者はどう受けとめたらよいであろうか。「教育勅語」が公然と息を吹き返し、政府がそれを援護するというこの時代に、私たちは安閑と過ごしてはいられないだろう。
秋葉正二