三位一体後第11主日礼拝
三位一体後第11主日礼拝 10:30 司 会 廣石 望 説 教 野木 虔一 奏 楽 鈴木 伶子 前 奏 (黙祷) 招 詞 (詩編100,1-3) 讃 美 歌 18「心を高くあげよ」 交 読 文 詩編57編 (「交読文]p.18) 旧約聖書 エレミヤ書17,5-8 (旧p.1208) 新約聖書 使徒言行録3,1-10 (新p.217) 祈 祷 説 教 「立ちあがり、歩きなさい」 祈 祷 讃 美 歌 521「とらえたまえ、われらを」 献 金 主 の 祈 93-5 頌 栄29 祝 祷 後 奏
本日の説教は、日本キリスト教会 前・鶴見教会牧師の野木虔一氏です。
- 教会学校 9:00 「みんな仲良し」(ヤコブ2:1) 中村今日子
本日礼拝後
- 特に予定はありません。
今週の集会
- 8月の集会は、教会学校と主日礼拝以外お休みです。
次週(8月26日)予告
- 三位一体後第12主日礼拝
聖書:ガラテヤの信徒への手紙3,26-29
説教:「新しい身分」廣石 望
- 教会学校 9:00 「人を大切に」(ルカ6,31) 齊藤和夫
今後の礼拝・集会予定
- 8月25日(土) 教会学校夏のお楽しみ会
13:30〜20:30 礼拝堂、会議室Aほか
- 8月26日(日) 第4回招聘作業部会
(礼拝後、会議室A)
- 9月2日(日) 定期役員会
- 9月9日(日) 関田寛雄牧師の説教
- 9月30日(日) 陶山義雄牧師の説教、大掃除と避難訓練
牧師室から
いささか古い議論だが、20世紀の半ば、イエスの十字架と復活の関係をめぐって、ドイツ語圏で論争があった。一方は、復活信仰は十字架の解釈として生まれたと言い、他方は、いや、復活は十字架に対する神のプロテストないし克服だと反論した。
ごく簡単に言えば、前者は、イエスという存在が、救いをもたらす神の呼びかけであると分かるのが復活だという意味であり、後者は、イエスの殺害を神が克服したのが復活だということだ。基本的には、後者が正しいと思う。
G.タイセン『イエスとパウロ キリスト教の土台と建築家』(日本新約学会・編訳、教文館2012年)も、そう考える。「十字架〔それ自体〕は…この世の災いの啓示であって、救いの基礎ではありません」。
さらに「犠牲の贖罪死」という理解について、タイセンは一つの重要なポイントをあげる。一般に宗教史では、「人々が怒っている神を贖いによって宥めよう」として犠牲を捧げるのだが、新約聖書では、まったく逆に、「神が、能動的に人間存在の罪を購う主体」になっているという。
この違いは大きい。タイセンはそれを、「一人の人を殺すことによって人類を救う神か、あるいは彼に新しい命を与えることよって人類を救う神か」と言い換えている。
贖罪のために殺害される犠牲獣は、本来「起こされる」(=復活する)必要はない。動物供犠はそんなことを、まったく期待していない。
イエスを〈大祭司〉になぞらえる『ヘブライ人への手紙』は、イエスを祭司のみならず、犠牲奉献者あるいは犠牲獣にも譬えている。奉納者・犠牲獣・祭司は本来は分業しないといけない。さらにイエスが「ただ一度」死ぬことで、贖罪のみならず、あらゆる種類の犠牲を包括的に解消したのだという。
復活信仰は、「犠牲」という考え方そのものを一新してしまったのである。(廣石望)