2012.08.19

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「立ちあがり、歩きなさい」

野木 虔一

エレミヤ書17,5-8; 使徒言行録3,1-10

 今日は、情報の時代といわれ、さまざまな手段によっていろいろな形で時局の問題が目や耳に入ります。そのような中で、わたしどもにとって必要なことは、人間にとって何が一番大事なことかを考えることではないでしょうか。それは、どこに自分の生きる拠りどころを置くかということでもあります。そのことを、このペトロたちと足の不自由な人との出会いの出来事はわたしどもに示唆しているのだと思うのです。

1.「もの」としての人間

 当時のユダヤ教では、朝と昼と晩と3回の祈りの時が決まっていました。弟子たちも、同じように一定の時に神殿に上り、祈っていたのです。言わば、決められた時に、決められた場所で礼拝し、祈りをしていたのです。それは今日で言えば、主の日ごとの礼拝をきちんと守っていたということでしょう。毎週、同じことを同じようにして、しかし、毎回心を新たにして、また、新たにさせられて守る。そのことが一つの信仰者の生き方なのではないでしょうか。

 さて、この日もペトロとヨハネが連れ立って、昼の午後3時の祈りのために神殿に上って行ったのです。「すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日『美しい門』という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである」(2節)とあります。聖書は、淡々と記していますが、一人の人が悲惨な、困難な状況の中に生きていた事実を直視しています。彼は、40歳を過ぎており、その人生の大半、自分の一日の食事代の施しを、気まぐれな参拝者の情けにすがる以外に生きる術がなかったのです。

 わたしはこの「運ばれて来て、神殿の門のそばに置いてもらっていた」という言葉にショックを受けるのです。何か荷物が運ばれてきて、そこにぽいと置かれていた。そんな感じを受けるのです。彼は、もう「人」ではなく「もの」としてしか取り扱われていない。「連れて来られて、そこに座らされていた」とは言わずに、「運ばれて来て、そして置いてもらっていた」と言うのです。彼は、最早、人間として尊厳を人々から認められてはいないのです。ただ、荷物のようにして運ばれてきて、そこに置かれていたに過ぎないのです。

 今日も、人を人とも思わない殺戮が行われています。また、同時に、わたしどもは、しばしば、知らず知らずのうちに「人」を「もの」として扱ってしまいます。たとえば、医療のミスの問題、手術をしたことのない医師が手術をして、失敗し、患者さんが亡くなってしまった。子どもたちの中に起こっているいじめの問題。相手の生徒は「人」ではなくて「もの」となっているのではないでしょうか。また、親が子どもを自分の所有物のように扱う。“Nobody Knows"「誰も知らない」という題名の映画をこの6月にはじめてアメリカで見ました(これは、巣鴨子供置き去り事件、東京都豊島区で1988年に発覚した保護責任者遺棄事件。 父親が蒸発後、母親も4人の子供を置いて家を出てしまい、実質に育児放棄状態になっていた。その実話に基づいて作成された映画)。まさに、子どもが「もの」として扱われている。わたしどもが「もの」ではなくて、「人間」として共に生きるためには、人格的な交わりなければならないでしょう。互いに「もの」ではなく、「人間」として生きているのか、生きようとしているのか。このような問いかけを聖書はここで投げかけているのではないでしょうか。

2.人間として見る

 今、礼拝のために神殿にやって来たペトロとヨハネが、「美しい門」を入って、通り過ぎようとします。その時、この足の不自由な人が、施しを乞うたのです。「ペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた」(3節)とあります。これは何も、特別なことではありません。彼にしてみれば、相手がペトロやヨハネでなく、誰であろうと、自分の目の前を通り過ぎる人があれば、言わばもう自動的に頭を下げて「どうか、施しを」というのは日常茶飯事のことになっていたのです。ですから、この足の不自由な人も、ペトロたちを本当に人間として見ていたわけではないでしょう。ただ、施しが、お金をもらうことが目当てだったのです。そこには人間的な関係はありません。

 けれども、今、聖書は「ペトロは、ヨハネと一緒に彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい』と言った。その男が、何かもらえると思って二人をみつめていると(4-5節)と続けて語ります。この3-4節の中に「見る」という言葉が、4回出てきます。日本語の訳では余りはっきりしません。しかし、原語はみな違うのです。最初の、この足の不自由な人がペトロとヨハネを見た時の「見る」は、ごく普通の「見る」という言葉で、ただ「人が通るのが目に入った」(“ see")だけのことです。それに対して、他の三つの「見る」という言葉はまず、「じっと見て」とあるように、これは「注視する」「目を逸らさないで見る」という意味の言葉です(REBでは“fixed his eyes on")。次の「わたしたちを見なさい」とあるのは、「目を見開いてよく見なさい」ということです(“look at")。そして、「見つめていると」とあるのは、「注意をして見守る」(“the man was all attention")という意味の言葉です。この足の不自由な人は、多分、多額の施しをもらえると思って期待してペトロたちを注意深く見ていたに違いありません。

 ところがどうでしょうか。意外なことにペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)と言うのです。大金でももらえるのか、と期待していた彼は、このペトロの言葉に、失望と怒りを感じたのではないでしょうか。もったいぶって「わたしたちを見なさい」と言い、その挙句に、「金品はない」、「立ち上がって、歩け」だと。「馬鹿にするのもいい加減にしろ」、「立ち上がって、歩けるものなら、とっくの昔にそうしているよ」と彼は心の中で、苦々しく思ったに違いありません。

 しかし、わたしはここに信仰に生きる、み言葉を語り、伝えることが何であるかを示されているように思うのです。「じっと見る」「この人が本来求めているものが何であるかを見極める」ことが大切なのです。それは、また、自分自身に対してもなさなければならないことでしょう。神さまの前で自分をじっと見る、自分にとって本当に必要なことは何か、なくてならぬものは何か、それをよく見極める。そこからのみ「もの」ではなく、「人」として生きる道が見えてくるからです。

 今、ペトロは、「この足の不自由な人にとって何が一番必要であるか」を見抜いているのです。確かに、生活をするためにお金は必要です。けれども、それ以上に、彼にとって必要なことは、神さまから命を与えられて生かされている人間である自分自身を取り戻すことです。彼は、本来の自分のあるべき姿を忘れていたのです。自分の生きる拠りどころを見失っていたのです。神さまによって命を与えられて生かされている自分自身を取り戻すこと、それが初代教会の福音宣教の目指したものだったのではないでしょうか。

3.生きる拠りどころ

 今、ペトロは大胆にも、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きない」と語りかけます。「名」というのは、わたしどもの場合には、「名目上」とか、「名前だけ」とか、何か「実体がないもの」を表わすような場合が多いのです。でも、聖書では「名は体を表わす」のであり、名が語られる時は、その名の実体や力が存在すると理解されています。ですから「イエス・キリストの名」が語られる場合、そこに「イエスご自身がおられる」ということと同じです。「イエスの名」によってなされることは、「イエスご自身の力」によってなされることなのです。

 この「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」とはキリストのもとに来なさいという招きの言葉でもありましょう。更に、これはペトロの祈りではないでしょうか。ペトロも一人の人間です。一人の人間がどれだけ他者の魂の奥底にある痛みや悩み、その魂の孤独の深さに触れることができるでしょうか。それは祈りにおいて、神と共に働くことがなければ、とても不可能なことではないでしょうか。この「イエスの名によって立ち上がり、歩きなさい」とは、ペトロがその魂の奥から注ぎ出した祈りです。「今も生き働きたもうキリストに出会い、その力を受けて歩きなさい」という祈りなのです。祈りさえすればよいのでしょうか。そうではありません。ペトロは祈って、そのまま、そこを立ち去ったのではありません。この祈りは、具体的な行動となり、「右手をとって彼を立ち上がらせる」(7節)のです。すると、彼は「たちまち、足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして歩き回ったり踊ったりして神を讃美した」(7-8節)のです。

 ある聖書の注解者は、この人はひょっとしたら立てたのかも知れない。しかし、自分で自分を立てなくしていたのではないか、と言うのです。確かに、わたしどもも同じことを経験させられることがあります。立てるのに立てない。生きられるのに生きることができない。その時、誰かが祈ってくれて、手を貸してくれる。そのことによって立ち上がって生きることができるようになるのです。祈ってもらい、手を取られたこの人は「躍り上がって立って、歩きだした」のです。そして心から喜んだのです。もう自分が「もの」ではなく、一人の「人間」として自由に生きることができるからです。神さまによって造られ、生かされて生きる自分を取り戻したのです。これ以上の大きな喜びはないのです。

 これが、最初の教会がなした伝道の働きなのです。どうして、このような働きをペトロやヨハネはなすことができたのでしょうか。それは、彼ら自身が、同じように、キリストによって祈ってもらい、立ち上がらせてもらった経験があるからです。自分を失っていたときに、「わたしに従って来なさい」と招かれ、自分の本来の姿を取り戻して生きることができるように導かれたからです。その信仰の経験が「わたしがもっているものをあげよう」と言わしめたのです。信仰とは、イエス・キリストの力によって立ち上がり、歩きだし、喜びの中に神を讃美して生きることです。これが、聖書が語る信仰であり、人間の「救い」です。

 わたしども日本の教会は、このペトロたちのように「わたしにあるものをあげよう。・・・イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と生きる拠りどこを示して、声を大にしてキリストへの招きを語っているでしょうか。「もっているものをあげよう」とペトロは言うのですが、それは彼の信仰です。自分がどれほど、信仰によって生きているかを証ししようとしているのです。ペトロは、自分が生きているのは、自分自身の力ではなくて、生かされて生きているのだということをリアルに実感して、喜びをもって生きていたのです。自分が生きているのは、生かされて生きているという深い感謝の思いです。それが、この「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と祈り、大胆に語りかけさせた力です。

預言者エレミヤの「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」(エレミヤ17,7-8)との言葉を噛みしめたいものです。神さまを信頼し、自分の拠りどころを神さまにおく。生ける水源に根を下ろす。そうすれば、どのような時にも、干からびてしまうことなく、生きた水を与えてくださる。根は見えません。しかし、確かに豊かな潤いを与えられて生きることができるのです。今日のわたしどもも、礼拝ごとに「イエス・キリストの名によって立ちあがり、歩きなさい」とのみ言葉を心から聞き、それに動かされて、力強く生きる者でありたいと思います。

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