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「聖者と悪霊」マルコ1:21-28 木村幸
士師記13:6-7;マルコによる福音書1:21-28 現代を生きる人々の間に今やインターネットは欠かせない。どんな距離でも人と繋がることができるネット社会。その反面、匿名性の高いコミュニケーションは心無い言葉の応酬にもなり...
Yoyogi-Uehara Church
士師記13:6-7;マルコによる福音書1:21-28 現代を生きる人々の間に今やインターネットは欠かせない。どんな距離でも人と繋がることができるネット社会。その反面、匿名性の高いコミュニケーションは心無い言葉の応酬にもなり...
異邦人の地で女性が「憐れんで下さい」と叫びながらついてきた。イスラエルの民ではないというイエスに女性はくいさがりその強靭な信仰をイエスは褒め、すぐに祈りを聞き入れる。私たちは信仰に倣う者となりたいと願う。「あきらめない」祈りを捧げ「あきらめない」希望を持つときに必ず神は風穴を開けてくださる。
アメリカ・ワシントン教区のマリアン・エドガー・バディ主教は、大統領就任礼拝で慈愛と尊重を求める説教を行い、トランプ氏から批判を受けました。この出来事から、形式化した礼拝に警鐘を鳴らし、神殿で怒りを表したイエスのエピソードが再確認されます。教会はすべての人の祈りの場であるべきです。形式主義や特権意識を捨て、他者に奉仕する心を取り戻すことが求められています。
本日の礼拝 旧約聖書:創世記28:10-22 新約聖書:マタイによる福音書21:12-16 説教:「旧いものからの脱却」中村吉基牧師 本日の集会 教会学校:9:00(ティーンズ科第2・第4主日9:50)...
詩編34:16-23;マタイによる福音書11:25-30 今週は音声のみ掲載します。
4人の漁師の箇所である。夜通しの漁でも一匹の魚もつれなかった4人の漁師がイエスの言う通りにしたところその網が破れるほどに大漁に恵まれた。その後イエスの「人間をとる漁師」というやや奇妙にきこえる誘い(これは他の福音書も共通の表現)にすぐに職も家族も捨て従ったのである。私たちにできるだろうか?主イエスはいつも近づいてお招きくださる。しかしさまざまな理由をつけて呼びかけを遮ってしまっていないだろうか?今日の箇所からシモンたち漁師の「すぐに従った」行動に倣いたい。
今日はイエスの洗礼を記念する日、従ってイエスの洗礼の箇所である。今日の箇所を通じて、まことの神そして人として仕えるイエスの姿に学ぶところが多い。主イエスに従う私たちはさまざまな方法で招いて下さった。主イエスが教えてくださった「神の国」の住人になることの表明が洗礼である。しかし洗礼を受けてもそれにふさわしい生活ができないときがある。しかしどんな時にも神を信頼し続けるだけで神は私たちを忘れてない。神に愛されている人は皆神の子なのである。主イエスは今日も私たちに「あなたはわたしの愛する子」と言ってくださっている。
ヘロデによってイエスが殺されたら神の国の福音は人間に伝えられることがなかった。ヨセフはマリアとイエスを連れてエジプトに逃れるが、ヘロデ亡き後、息子アルケラオの支配が及ぶユダヤ地方を避けてナザレに住んだ。ヨセフとマリアは神の子を第一とする信仰を守っていた。神がアダムとエバをおつくりになったときの思いがヨセフとマリアに受け継がれているのである。ところでアダムのあばら骨から「彼に合う助ける者」として作られたエバという表記は長いこと男は女より優位という解釈を生んできた。しかしもともとの言葉は「エーゼル・ケネグドー」、いろいろな意味があるが英語圏では「パートナーとしての助け手」という語があてられている。同じ目線で助けあう存在なのである。我々は神さまから作られたお互い「エーゼル・ゲネグドー」として助け合い交わっていきたい