降誕前第3主日一覧

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「正義の神は私たちと共に」イザヤ61:1~11 中村吉基

今日の箇所の預言者は通称を第3イザヤといい、イスラエルがバビロン捕囚から解放され破壊された神殿を再建した頃に活動した。無残に破壊された神殿を前に失意のどん底にあった人々に第3イザヤは希望をもって神の言葉を取り次いでいった。「失意の中、力を失くし、絶望し、嘆いている人に」「打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人には解放を告知」する力を持った「知らせ」である。私たちも苦難の中にあり、時には報復も考えてしまうときもある。しかし神は苦難に喜んで与えているのではなく、私たちがどう対処するかをご覧になっている。神は私たちを高く評価し日々私たちを上昇させようとされている。待降節ははやる心を抑えて待ち、自らの信仰を省みる時である。神にすべて委ねよう。ガラテヤの信徒への手紙でパウロがこう言う「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります」

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「神に心を向け直す」マタイ3:1-12 中村吉基

今日と来週の礼拝では洗礼者ヨハネの記事が朗読されるが、ヨハネに注目するためではなくヨハネが指差した救い主を見るためである。この箇所はルカ福音書にもあるが、マタイの方が迫ってくるものがある。まず命令形で「悔い改めよ。天の国は近づいた」とある。悔い改めというのは、聖書では心も体も「神に心を向け直す」ということである。そこには人間は神に背を向けて生きてしまうという前提がある。ヨハネは荒れ野で声をきき、悔い改めを説いた。イエスも伝道開始時に同様のことを言っている。神と私たちとが出会うことを導いてくださってるのである。神を感じるのは願いが実現した時ではなく闇の中や荒れ野のような状況である。私達が背を向けてもヨハネが示したように神の使者はまもなくおいでになる。ただ何となしにクリスマスを迎えるのではなく、自分自身の心が本当に神に向かっているのか糾明しながら待降節の一日一日を歩みたい。