「新しく生まれ変われる」マルコ1:9-11 中村吉基
軽蔑と疑惑の対象の地ナザレで育ったイエスが洗礼者ヨハネから洗礼をうけた時に新しい時、つまり火の聖霊の洗礼を受けて救われる道が開かれた。神の子でありながら人と同じように洗礼をうけたことは人間と同じように歩まれたイエスの姿勢をよくあらわしている、また天からきこえた「私の心にかなう者」という言葉も神の祝福がわかる。私たち洗礼を振り返り自分の置かれた場所から進み出ていくことが必要だろう、神は私たちにも「心に適う者」と言ってくださる。
Yoyogi-Uehara Church
軽蔑と疑惑の対象の地ナザレで育ったイエスが洗礼者ヨハネから洗礼をうけた時に新しい時、つまり火の聖霊の洗礼を受けて救われる道が開かれた。神の子でありながら人と同じように洗礼をうけたことは人間と同じように歩まれたイエスの姿勢をよくあらわしている、また天からきこえた「私の心にかなう者」という言葉も神の祝福がわかる。私たち洗礼を振り返り自分の置かれた場所から進み出ていくことが必要だろう、神は私たちにも「心に適う者」と言ってくださる。
今日は待降節第2主日、平和の主日。今日の箇所では洗礼者ヨハネは荒れ野で悔い改めの洗礼を宣べ伝え、主の道を整える役割を担った。当時の荒れ野とは絶望の場所であったが、そこに神は道を整えてくださった。悔い改めとは反省改善だけではなく、神に立ち返る、我々の存在を神に向きなおすことである。心に主の道を整えることなのである。ただのクリスマスではなく、このことを見つめながら待降節を歩みたい
聖書にはイエスの誕生日は記されていない。古代教会でクリスマスが祝われるようになったのは4世紀からで、当時流行っていたミトラス教で冬至の12月25日を「不滅の太陽の誕生日」としていたが、キリスト教では「キリストこそまことの正義の太陽」としてこの日を主の降誕日とした。「その日」に「義の太陽」がこの地上の全てを癒すという預言者マラキの言葉もある。さて今日の新約の箇所は「ヨハネは一体誰か?」である。ローマ帝国の支配下で重税や差別に苦しんでいたユダヤの民がメシアを待ち望んでいた時に現れたのがヨハネである。荒れ野で神の言葉を受け、神に立ち返るようにヨルダン川で洗礼運動をしていたヨハネに人々は期待をもって質問するが、ヨハネは自分がメシアでもエリヤでもあの預言者(モーセと考えられる)でもなく「私は荒れ野で叫ぶ声」と答える。これはイザヤ書からの引用とされるが、ヨハネは「後から来られる方」「光(イエス)について証するために」神に遣わされた証し人だと名乗る。私たちも現代においてヨハネと同じ使命を神から頂いている。救いを求めている人に「光」であるキリストを伝え、神が主イエスを救い主としてお遣わしになったクリスマスを祝うことで、洗礼者ヨハネのように「光を証し」していこう。
今日と来週の礼拝では洗礼者ヨハネの記事が朗読されるが、ヨハネに注目するためではなくヨハネが指差した救い主を見るためである。この箇所はルカ福音書にもあるが、マタイの方が迫ってくるものがある。まず命令形で「悔い改めよ。天の国は近づいた」とある。悔い改めというのは、聖書では心も体も「神に心を向け直す」ということである。そこには人間は神に背を向けて生きてしまうという前提がある。ヨハネは荒れ野で声をきき、悔い改めを説いた。イエスも伝道開始時に同様のことを言っている。神と私たちとが出会うことを導いてくださってるのである。神を感じるのは願いが実現した時ではなく闇の中や荒れ野のような状況である。私達が背を向けてもヨハネが示したように神の使者はまもなくおいでになる。ただ何となしにクリスマスを迎えるのではなく、自分自身の心が本当に神に向かっているのか糾明しながら待降節の一日一日を歩みたい。