「おいでください」ルカ14:15-2廣石 望
聖書の時代、食事は食事式つまり社会的な義務を果たすと同時に自己演出を行うものであった。しかし今日の箇所でイエスが譬えた食事に招く代理客は当時としては考えられない、見返りを求めない人達であった。しかし神の招待にお返しができる人などいない。我々の共同体も今まで仲間ではなかったものになっていきたい
Yoyogi-Uehara Church
聖書の時代、食事は食事式つまり社会的な義務を果たすと同時に自己演出を行うものであった。しかし今日の箇所でイエスが譬えた食事に招く代理客は当時としては考えられない、見返りを求めない人達であった。しかし神の招待にお返しができる人などいない。我々の共同体も今まで仲間ではなかったものになっていきたい
聖書における「世界の終わり」はまさに世界が壊れるというイメージであるがその後に「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来」て、「選ばれた者を四方から呼び集める」とある。神による救済である。これがいつなのかはわからないので、イエスは「気をつけて、目を覚ましていなさい」と教え、主人がいつ帰ってくるかわからないからしもべはそれに備えておかなければならないというたとえ話をなさる。しっかり準備をしておかなければならないのである。これは自分のためだけの準備ではない。どんなに小さな者の痛みや死も神の前で忘れ去られることはないことを覚え、目を覚まして何が真の平和をもたらものであるかを見分けるためのトレーニングをしなければならない。
ウクライナ侵攻、アメリカの銃乱射など陰鬱な影の中で真の希望に値する未来はあるかをイエスの大いなる晩餐の譬えを手がかりに考える。宴会の招待客全てに参加を断られた主人は町の通りからあらゆる人を招く。当時の常識ではありえないことである。 イエスの神の王国とはイザヤ書にもある山上での宴会であり、イエスが罪人と呼ばれる人々と交わったのもその先取りであり、そこには平和への希望があふれている。 それぞれの時代を生きた福音書の筆者たちは、イエスの譬えを用いて暴力の体験を理解しようとしたり、上昇志向の価値観を内側から変えようとしているのかもしれない。私達も世界の平和を祈っていきたい。