四旬節一覧

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「イエスにならう」マタイ4:1-11 中村吉基

先週14日の「灰の水曜日」、昨年の棕櫚の主日に飾られた棕梠の葉を燃やして、その灰をそれぞれの額につけて「土の塵」から想像されたことを思い起こした。今日の箇所では悪魔がイエスを誘惑した箇所である。しかしこの冒頭には〝霊〟によって導かれたのだとある。霊による導きによって悪魔の試練を受ける、すべては神のもとにるのである。さて、誘惑するものは石をパンに変えるように、つまり物質的なモノにように満たされることとと預言者としてのイエスを試している。旧約聖書のエリヤにちなんでいるものである。次に都の神殿の屋根の端に立たせ飛び降りたらどうだ?と誘い、自分さえ良ければいいとする誘惑(十字架にかけられた際に人々から侮辱も同じような言葉であった)と同時に祭司としてのイエスを試している。祭司は神と人の間を執りなす役割なので、神はイエスを助けるだろうというのです。次に悪魔は非常に高い山から国々を見せてもし、ひれ伏してわたしを拝むならこれをみんな与えようという。富と権力に対する試練、そして王としてのイエスを試している。これらに対してイエスは「退け、サタン」と言われる。サタンの誘惑は私たちにも向けられるし、私たちの中にもある。命も富も必要であるが執着してはいけない。私たちは神の言葉に従うことが大切である。神の言葉に導かれ養われることを受難節の課題としたい。

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「イエスに従う旅」ルカ19:28-40 中村吉基

受難節の最後、今日は主イエスのエルサレム入城を記念する〈棕梠の主日〉と呼ばれる。弟子たちは革命や衝突を心配していたが、イエスは村からロバをひいてくるように弟子に命じる。王にふさわしいとは思えないが、イエスはよく弟子に話していた通り「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」を実践され、自らを低くされた。この時に選ばれたロバは私たちの姿にも重ねることができる。自らの忙しさ罪深さに取らわているが「主がお入り用なのです」と主イエスが言って下さる。信仰は旅になぞらえられるが、私たちの旅は主イエスが先にたって進んで下さる、よそ見をしてると軋轢が生じることもあるが、主イエスを見失わないことが大切である。受難の一週間、そして来週の復活を喜び合いましょう。

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「主よ、献げます」ヨハネ12:1−8 中村吉基

ラザロの復活でますます人気の的であったイエスを、祭司長たちや律法学者たちは憎み何とか殺そうと企んでいた。イエスは危険ではあるがベタニアのラザロの家の家の招きに応じた。そこは貧しい人の暮らす地域であったが、その家のマリアは300デナリオン以上するナルドの香油でイエスに注いだ。この贅沢な歓待にイエスの弟子は憤慨したがイエスは受け入れた。マリアがその時に主イエスにできる限りをささげた。私たちが今ここで同じようにささげることができるとしたら何かを考え行動することを神は待っておられる

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「ゆるしと愛への招き」ルカ15:11-32  中村吉基

好き勝手に振るまいお金に困って帰ってきて雇ってほしいと言った息子を父親は遠くから見つけ憐れに思い走り寄って首を抱き接吻した。有名な放蕩息子のたとえである。神は正しい人に「しか」祝福をしない、と勝手に考えてしまうものであるが、神のもとには大きな「ゆるし」が備えられている。しかし家でずっと父に仕えてきた兄は納得がいかない。私たちはどちらかというと兄に似てはいないだろうか?それは罪人を切り捨てたファリサイ派、律法学者の姿そのものである。私たちの傷はイエスも苦しんで下さっている。イエスが甦られたように必ず平安が与えられる。これが神の愛である。

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「神に向かって生きる」ルカ 13:1-9 中村吉基

病気、災害、事故を因果応報(神の罰)とする考え方がある。しかし主イエスはシロアムの塔の下敷きになって死んでしまった人たちの事故は、決して天罰ではない、ときっぱりと否定した。すべては神の愛に包まれている。天罰や因縁をいう人達は不幸に合わない人を正しい人とみなしていることになる。そうではなくしっかりと自分自身を糾明し、悔い改めなければならない。神の愛に立ち返り、悔い改めの実が結ぶように神は期待を込めて待っておられる。