列王記一覧

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「わたしたちの祈り」マタイ6:1-15 中村吉基

どの教会の礼拝においても「主イエスが教えてくださった祈り」として祈られている「主の祈り」、原始教会ではクリスチャンになるものだけが知ることを許された「秘密の祈り」だった。主の祈りでは「我ら(私たち)」という語である。プロテスタントでは祈祷書を用いず自由祈祷が通例であるがともすれば自己中心的な祈りになってしまう。しかし主の祈りは「私個人の祈り」ではなく「私たちの祈り」すなわち共同の祈りである。中でも「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」では他者を赦す前に自分が赦されることの必要性が語られている。「赦す」ことは簡単ではない。しかし主イエスは人間の恨みや苦しみをすべて引き受け十字架の死を遂げられた。主の祈りを通して「私たち」が「赦され、赦す」ものへ変えられるようになりたい。

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「少女よ、起きなさい」マルコ5:21-24a.35-43 廣石望

日本でコロナ禍の影響下で自死した人の数、ウクライナでの戦いなど、死が命をあざ笑っているかのようだ。今日はヤイロの娘の話を手がかりにイエスの命の守り方、復活信仰とは何なのかを考える。 ヤイロスに要請をうけて同行するイエスに次々と邪魔が入る。押し寄せる群衆、出血の止まらない女、そして当の娘の死、人々の嘲笑…しかしイエスはそれを乗り越えただ信じることを命じ、少女に起きなさいと言い、彼女は立ち上がる。現代に生きる我々も、その時代を生きる人々にも理解を超えることであるが、それを通してこの話ではすべてを新しくする「神の王国」の到来を現実化した。 ヨハネ福音書に記されたラザロの復活を読むと、復活信仰とは神の命を与えるイエスへの信頼他ならない。イエスが呼びかける声を聞き、今の世界に神の命から「生きる」ようになるとき、命をあざ笑う死の現実に、今ここで抗えると信じたい。