主日礼拝一覧

NO IMAGE

「あなたは誰ですか」ヨハネ10:27-30 中村吉基

イエスは私たち人間を羊に喩え、羊飼い=イエスの声を聞き分ける者には永遠の命を与えると語っています。毎日の生活の中で神さまの声を聞き分けることができるようになるには、すぐ近くにいる人々の声を聴くことが大切です。神さまはさまざまな人との出会いを通して、歩むべき道を示してくださるのです。私たちと出会うすべての人が神さまの子どもであり、イエスは「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と語りました。イエスについていくことを妨げるのは人間の弱さではなく、「羊飼いなどいらない」と思ってしまう自信過剰です。そのことを心に留めて新しい一週間を歩みましょう。

NO IMAGE

「マイム・マイム」ヨハネ7:37-39 中村吉基

聖書の舞台イスラエルでは水が大変貴重であることから、「水」は神の救いの象徴となっていきました。イエスは渇いた人々に「私のもとに来て飲みなさい」と呼びかけ、魂の渇きを満たす「生きた水」の働きを示しています。また、この「生きた水」は、信じる者の内から他者に広がり、喜びと慰めをもたらすのです。

NO IMAGE

「もう一度、やり直せる」コリントの信徒への手紙Ⅱ5:16-19 中村吉基

クリスチャンとして生きることは、単に性格や振る舞いを変えるだけでなく、キリストと結ばれることで、過去の自分から新しい自分へと変わることを意味します。渡辺峯さんは、神の導きによって人生を変えられ、信仰と平和への貢献しました。この変化は、「新しい命」を意味し、神が私たちを守り導いてくださることを信じることが大切です。

NO IMAGE

「負けて勝つとは」 マタイ26:47-52 中村吉基

今日は平和聖日、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」とイエスが言われたとおり、平和を思い浮かべるのではなく作り出すものにならなければならない。沖縄で米国の土地強奪に対して非暴力で立ち向かった阿波根昌鴻の作った「ヌチドゥタカラの家」も壁には「すべて剣をとる者は剣にて亡ぶ」とある。今日の説教題は阿波根さんの言葉である。イエスさまは剣を突きつけた敵たちをゆるされた。「負けて勝つ」とはそういうことである。神さまもまた私たち人間が犯した罪責への悔い改めを受け容れ救いに導いて下さる。

NO IMAGE

「いのちの糧」ローマ14:10-23 中村吉基

パウロはローマの信徒への手紙に「食物規定」について書いている。旧約の律法はさまざまな戒律があり何千年にもわたり守られていたが、その解釈によって、例えば菜食か否かなどで問題も起こっていた。パウロはこの問題について心を痛めていたようである。信徒にむかって、戒律を重んじる信仰の弱い人批判せず受け入れるように言う。食物について、かつてイエスは「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができない」と言われたが、パウロも「わたしは主イエスによって知り、そして確信しています」「汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです」と続ける。人間は聖俗など分けるが全て神がお造りになったものである。神の関心は誰が何を食べるかではなく魂である。私たちの内側に活きる神が見えなくなる時に神の愛に生きる道から外れてしまう。キリストは、食べ物のことで悩む兄弟のためにも死んでくださってるのである。パウロがいうように「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜び」であり、平和や互いの向上に役立つことを追い求めることがクリスチャンである我々がこの地上の教会を作り上げるようにと招かれている。

NO IMAGE

「光は暗闇の中で輝いている」 ウクライナ避難者支援活動の現場より ヨハネ1:5 横山由利亜

外国人の人権のために祈るインターナショナルサンデー礼拝に日本YMCA同盟でウクライナ避難民支援をなさっている横山由利亜さんに支援のきっかけ、現場での話、避難までの、そして避難してからの苦労、戦争というものがいかに人の生活を壊し、人との間を断絶してしまうか。避難をする人たちのともしびとなるための活動であったが、活動を通して「人間の尊厳の大切さ」「日本が多様な人と暮らせる社会か、やり直しができる社会か」が照らされる。「途中ニュース画像は音声ではカット、また原稿にもありません。

NO IMAGE

「復活への希望」使徒24:10-21 中村吉基

パウロがエルサレムで逮捕されローマに護送された先で最高法院の代表である大祭司アナニアがその側近に対して弁明する。その前にいたテサロニケでパウロは多くのギリシア人たちを信仰へと導きそれを妬んだユダヤ人が暴動をおこし大騒動となった。またその前のエフェソ等のアジアでも多くの信徒を獲得しているため嫉妬されてる。しかし彼がエルサレムでしていたことは神を礼拝することだけ。パウロは「ナザレ人の分派」と呼ばれ異端とされていたことを「この道」と言い換え、それに従って礼拝し何ら神さまの御心に反するものではない。そして「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています」と続ける。ファリサイ派の人たちは正しい者だけが復活すると信じていたようであるが、イエスさまは「時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ」、つまりすべての人が復活すると約束している。「私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」と言う。パウロは復活のキリストにあって回心した人物である。ローマの信徒への手紙10章にもあるように「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と書いている。復活のイエスさまと私たちが、神と私たちがしっかりとつながっていることを示している。私たちは天にある方々と繋がっている。復活の主を仰いで光の中を歩んでいこう。