
「固く結び合いなさい」コリント1I:10-17中村吉基
分裂していたコリント教会にむけて書いたパウロの書簡が今日の箇所である。人は教えを受けたものを尊重してしまうが、信仰は指導者に対してあるべきではない。パウロは自分の働きは洗礼の数ではなく福音を伝える事、十字架の復活と恵みが教会の中心なのだと書く。現代でもこのような派閥や対立が生まれがちであるが、意見や立場の違いを超えて互いに支え合い、十字架のもとで一致する群れである必要がある。そしてその一致は我々の努力ではなく神の賜物である。
Yoyogi-Uehara Church
分裂していたコリント教会にむけて書いたパウロの書簡が今日の箇所である。人は教えを受けたものを尊重してしまうが、信仰は指導者に対してあるべきではない。パウロは自分の働きは洗礼の数ではなく福音を伝える事、十字架の復活と恵みが教会の中心なのだと書く。現代でもこのような派閥や対立が生まれがちであるが、意見や立場の違いを超えて互いに支え合い、十字架のもとで一致する群れである必要がある。そしてその一致は我々の努力ではなく神の賜物である。
齢を重ねることは神さまからの恵みであることを憶えて今年から始めた「恵老祝福礼拝」。年齢を重ねると「もう自分の働きは終わった」と思うが、聖書は、人生の晩年こそ新しい仕方で神が働かれる時である、と語る。今日の聖書箇所のパウロの手紙では、前を向くと書かれているが、彼は宣教故に牢獄で死を間近に見つめていた。しかし信仰の歩みには終わりがない。神は人生のどの時期にも私たちを用いて下さる。今日の礼拝にあたり年長者の歩みに感謝し教会にとってかけがえのない力であることを忘れず、ともにキリストを知るというゴールにむけて歩み続ける。
今日の箇所では、神がその計画に従って私たちをあらかじめ選び、御子に似た者とし、使命を与えてくださるとある。善と悪がせめぎあうこの世で、神が「善きこと」に向けて導いてくださると信じる者は希望をもって歩むことができる。差別の対象であった同性愛者でありながら政治家として活躍し、マイノリティの希望となりながら最後には殺されてしまったハーヴェイ・ミルクはよく「人は希望がなければ生きるに値しない」と語った。神は絶えず希望を与えてくださる。その希望を胸に進むことが幸せである。
パウロは現代イスラエルのことを当然知らないが、ローマ書簡を通して現在をとらえる眼差しがどうあるべきかを考えたい。この中で救いとは4つあると示す。〈律法の行為による救い〉、〈律法なしの義認〉、〈変貌による救い〉、そして今日の箇所である〈選びによる救い〉である。パウロは伝道によって集まった異邦人に神殿祭儀を解放することでイスラエルの不信を取り除くと夢見ていたのかもしれない。神の憐れみは人間の信仰ではなく神が中心なのである。そういう意味で現在のシオニズムとパウロの考えは違う。私たちが平和を求めるなら個別の内的確信に基づきその限界を超えなければならないことをパウロは示唆しているように思う。
この日はインターナショナルサンデーとして、外国人の人権のために祈る礼拝をささげました。パレスチナ・ガザ地区にあるキリスト教の病院「アハリー・アラブ病院を支える会」より山本光一牧師(旭川六条教会)をお招きし、パレスチナの現状についてお話しいただきました。
教会では「執り成しの祈り」が伝統的に行われており他者のために教会が代わって祈ることが大切とされている。今日はパウロが若いテモテに語る勧める箇所である。すべての人たのために、高い地位の人々のために祈ることで平和があるように、とりなしと感謝をささげるようにと説く。この時代の政治家は原始キリスト教会をを迫害する存在である。今でも自分の考えの違う為政者のために祈るのは難しい。しかしパウロはすべての人々が救われて真理を知るようになることを神は望んでいるという。つまり祈りは神の御心と世界をつなぐ窓の役割を果たしているのである。
教会以前の「信じたい人々の群れ」の頃、彼らが信じていたのは死者の中から復活させられたイエスである。彼らはすべてを共有していた。持っている人が偉いのではなく、持たない者こそが祝福という逆説的な福音の価値観で「貧しい者は1人もいない」という喜びに満ち溢れていた。彼らは祈りによって心を1つにし、共同体を形作り、使徒たちは「大いなる力」で主イエスの復活を証しした。所有は悪い事ではないがいかに用いるかが大切である。この最初の教会に倣い、「助け合い、支え合う」共同体でありたい。
山本光一牧師の礼拝と講演会 代々木上原教会では、毎年この時期にインターナショナルサンデー礼拝として、外国人の人権のために祈る礼拝をささげています。今年は、パレスチナ・ガザ地区にあるキリスト教の病院「アハリー・アラブ病院を支え...
アテネの仲間と待ち合わせていただけのはずだったが聖霊に導かれて宣教をはじめたパウロの説教が今日の箇所である。「知られざる神に」という祭壇の前で「知らずに拝んでいるもの」は天地万物を作り命を与えるまことの神であると語った。他の信仰をけなすようなことはせずアテネの人達を尊重しながらの話であったが、すぐに受け入れられたとはいえなかった。私たちの周りにもいる「知られざる神」を探している人に「それこそイエスキリストである」と語ることが大切である。対話と愛の姿勢をもってまだ知られていない神を伝えていきたい
神を知らないまま生きていいた「暗闇」の者がキリストにより神を知り「光」となるとパウロは表現する。光は単なる明るさではなくキリストのことである。パウロは「光の子として歩みなさい」と勧める。神は分け隔てなくすべての人をキリストの救いに招いてくださる。それは突然立派な人になれるわけでなく、神に愛される者に生まれ変わるということである。やがて来る死に不安を抱くことがあるが、死は終わりではなく神のもとへの帰還である。私たちは地上で成し遂げる役割があり、神のもとへと帰る。今は亡き人たちはすでに神の元で安らぎのうちにある。再会を胸に地上で光の子として歩もう