ヨエル書一覧

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「神の愛は突然に」使徒2:1-13中村吉基

今日はペンテコステ。弟子たちがエルサレムに集まっていた時、激しい風が吹いてくる音がして炎のような下が現れその上にとどまりそれぞれ“霊”に満たされ、異なる国々の「ことば」で語り出した。巡礼のために集まっていたユダヤ人たちは故郷の言葉を聞いて驚いた。これは奇跡であり教会の始まりとされているが、「ことばの壁を越えて、人が人と出会い直す出来事」として受け取りたい。聖霊の働きによって弟子たちが話す「ことば」は分断されていた人間関係の壁を神の力によって破られた。親しみのない「ことば」や文化は不安になることがある。しかしペンテコステに生まれた教会は多様性に満ちた場だった。しかし人は固有の「ことば」の中に生きている。この日聖霊は弟子たちを突き動かし他者に向かってそれぞれの「ことば」で福音を語らせた。神と人と主イエスが繋がり直すため、違いをなくすためではんく「違いのまま、共にある」ためである。私たちが他者の「ことば」に耳を傾け自分の「ことば」で応えていく中に神の霊が生きて働かれるよう祈る。

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「イエスにならう」マタイ4:1-11 中村吉基

先週14日の「灰の水曜日」、昨年の棕櫚の主日に飾られた棕梠の葉を燃やして、その灰をそれぞれの額につけて「土の塵」から想像されたことを思い起こした。今日の箇所では悪魔がイエスを誘惑した箇所である。しかしこの冒頭には〝霊〟によって導かれたのだとある。霊による導きによって悪魔の試練を受ける、すべては神のもとにるのである。さて、誘惑するものは石をパンに変えるように、つまり物質的なモノにように満たされることとと預言者としてのイエスを試している。旧約聖書のエリヤにちなんでいるものである。次に都の神殿の屋根の端に立たせ飛び降りたらどうだ?と誘い、自分さえ良ければいいとする誘惑(十字架にかけられた際に人々から侮辱も同じような言葉であった)と同時に祭司としてのイエスを試している。祭司は神と人の間を執りなす役割なので、神はイエスを助けるだろうというのです。次に悪魔は非常に高い山から国々を見せてもし、ひれ伏してわたしを拝むならこれをみんな与えようという。富と権力に対する試練、そして王としてのイエスを試している。これらに対してイエスは「退け、サタン」と言われる。サタンの誘惑は私たちにも向けられるし、私たちの中にもある。命も富も必要であるが執着してはいけない。私たちは神の言葉に従うことが大切である。神の言葉に導かれ養われることを受難節の課題としたい。

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「心を抉られる経験」使徒2:37-42 中村吉基

五旬祭の日、主イエスが甦った喜びを伝え、十字架のイエスを神は主としメシアというペテロの説教をきいた人々「深く心を抉られ」(荒井訳)と聖書にはある。聞いた人々のどうしたらいいかを質問に対しペテロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と答える。これに応えて洗礼を受けたものはこの日だけで3千人あったと記されている。福音のメッセージを聴いて、「深く心が抉られる」経験をしたことがあるだろうか?どのようにして福音の言葉が届けられたのかを思い起こし、聖霊の賜物をもって福音を伝えよう。聖霊は必ず私たちを支え、それを助けてくれるのだ。