モーセ一覧

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「言い訳を捨てる」申命記18:15-22 中村吉基

モーセは言い訳の達人というわけではないが、言い訳が相手をまた神をどれほど悲しませるかを今日の箇所を通して考えてみたい。モーセは神がイスラエルの民を救うために立てられ、み言葉の伝達者にして忠実であることが求められた。単に伝えるだけではなく」従わない者があるならば神はその責任を追及する¥とある。とても厳しい。しかしクリスチャンとは主イエスが歩かれた荊の道に続いていくものである。そこに言い訳や言い逃れができない。道を歩む上で躊躇や苦悩を覚えてしまうが、聖霊がともにいてくださる。そのような歩みのなかに大きな恵みがあるものである。言い訳をしても神はすべてご存じだ。クリスマスにむけて神が私たちに贈ってくださった救い主イエスを見上げて歩みたい。

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「文字と霊」IIコリント3:3-18 廣石望

パウロはコリントの共同体のことを「インクでなく神の霊で石の版でなく肉の心という板に書かれたキリストの手紙だ」という。いくつかの旧約のモチーフがひかれており、「コリントのキリスト共同体はエレミヤやエゼキエルの預言の成就でありそれはかつて破られたモーセのシナイ契約を超える、神が与えた新しい霊によって「肉の心」として体現される神の民」ということのようである。そして「新しい契約」が「霊」の性格をもつとは、その担い手が肉となった終末論的な共同体であること、私たちが神の究極的な働きが現れる具体的な場であること、「文字は殺す」は神との関係の断絶としての死をもたらすという意味であろう。 パウロが言う「文字vs霊」とはユダヤ教や旧約との対比ではない。出エジプトが伝える「モーセの顔覆い」に見られるモーセの顔が放つ光とキリストの栄光との比較と言える。 私たちは、キリストの栄光を受けて新しい人間へと変貌するために聖書を日々新しく読み、神から託された平和の務めを果たしたい。

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「強く、雄々しくあれ」申命記31:1-8 中村吉基

今日の箇所はモーセの死についてである。激動の120年を生きた彼はエジプト脱出から40年人々を率いてきたが、最後のヨルダン川を渡ることはできないと神に告げられる。しかしイスラエルの民にモーセは「恐れてはならない」といい、「強く、雄々しくあれ」と伝える。これは私たちがそうならなければならないのではなく、神の「強く、雄々し」い御力が私たちを支えているという約束の言葉である。そのような言葉を受けれるモーセの心情はいかばかりであろうかと思うが、十字架に至る道のイエス・キリストも〈死〉を神のみ心として受け入れた。私たちもさまざまな道を歩む。私たちの人生の折々の扉の前で神は皆さん一人ひとりに語る。「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない」と。