マタイによる福音書一覧

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「世直しへ召された者の心構えと佇まい」 マタイ10:5−15 陶山義雄

マタイ福音書第Ⅱ説教集の3回目のテーマは弟子派遣にまつわるテキストであるが、受難節第1主日に相応しい内容を備えている。まず、我々がここに在るのは宣教者の働きによるものである。彼らは遣わされる際に様々な困難に対しての備えと心の準備をしている。マタイを含めて他福音書にある同じ「12弟子派遣の説教」の記述を参照しながらイエスが話された御言葉に迫って行きたい。マタイ記者は当時のユダヤ教に対抗する思いをもって教会の働きを描こうとしているので、現実から、またイエスの言葉からもかけ離れてしまっている点がある。世直しへと召された者の佇まいとしてイエスの教えは、清貧の出で立ち、極貧者のような佇まい、それは救いを待ち望んでいる人々と同じ姿になる事に尽きる。イエスが弟子を遣わす際に語られた言葉は、今も私達と教会に生きて働く言葉である。そしてイエスの第一声で、弟子たち伝えるべきメッセージ「天の国は近づいた」は我々が心に明記すべき救いの知らせ、福音である。

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「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』」マタイ5:37、26:52 中村吉基

2/11は日本のプロテスタント教会の「信教の自由を守る日」。明治政府が日本書紀の記述をもとに天皇中心の歴史観で1872年に定めた紀元節は、第2次世界大戦後は廃止されたが1967年から「建国記念の日」として復活した。日本キリスト教団は戦時に体制側に擦り寄り信仰を捨て戦争に加担した反省があり同年のイースターに「戦争責任告白」を発表し、同日を「信教の自由を守る日」とした。今日の箇所「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい」は「誓ってはならない」に続く言葉である。当時の誓いは身を滅ぼし命がなくなるようなものもあり、イエスはそのような事に神の名をみだりに使って誓うことなどは傲慢だと指摘した。命や物質的なものすべては神から預けられたものであり、自分の好き勝手にしていいものではない。命は仕事や国に捧げていいものではない。私たちには「拒否」する自由も与えられている。防衛費を増大させ、かんたんに戦争に加担するような国に対して決して無責任・無関心になるのでもなく「イエス」か「ノー」かを積極的に選び取り行動を起こしていきたい。

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「天の国は誰のものか」マタイ5:1〜12 中村吉基

イエスが山上で神について教え始められた最初の教えとして位置づけられ、教えのすべてが凝縮されているということも可能な今日の箇所「心の貧しい人々は幸いである」から8つの「幸い」は、病などで苦しむ人々を癒した後その群集の前にした説教である。イエスは行動目標を決めたわけではない。当時は「細かい律法を守ることなしに人間は救われない」とされており、その信仰から脱落してしまった人もいた。イエスは古い信仰を終わらせ新しい教えを伝えた。貧しい人、悲しむ人々は「幸いである」とは「素晴らしい知らせ」と表現する人もいる。そして柔和な人々、義に飢え乾く人々、憐れみ深い人々と続く。それぞれ実現が難しいことであるが、主イエスは成し遂げられている。つまり、相手に何が必要かを考え、相手の幸せを願って、自分の力を使う人々のことである。最後の「義のために迫害される人々」については熟慮して読まねばならないが、今日も主イエスは語ってくださっている。今日の箇所では「粘り強く」「頑丈に」行きなさいと教えられている。「天の国はその人たちのものである」というその人たちの中には私達も含まれいてる。この主イエスの約束を信じて「素晴らしい知らせ」を告げられた者たちとして歩んでいきたい。

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「イエスの弟子として」マタイ4:12-23 中村吉基

ガリラヤという「暗闇」とまで言われた辺境の地の漁師であった4人の人生が変わっていく。彼らは弟子になりたいと思っていたわけではなく、イエスの方から「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われてすぐに従っている。自分の生活があるのに、彼らも主イエスに触れて従うことを自分で決断したのかもしれない。イエスの人を見方や価値観というのは私たちとは根本的に違う。人ができないような働きや有名な大学等ではない。ごくありふれた普通の人を弟子にしている。それぞれの賜物を生かし、時々弟子に失望しながらも、弟子たちを用いた。我々は自分のことは自分が知っていると思っているが、人間のいのちを創ってくださった神の方がはるかにご存知である。神は無駄な物はお創りにならない。つまり今生きていることこそ、神が愛してくださっているというしるしなのである。私たちは神に出会って輝く人になる。今日の箇所には「悔い改めよ、天の国は近づいた」ともある。主イエスが4人の漁師たちに近づいていったように、神のほうから招いてくださっている。私たちは神の招きに応えて、主イエスの弟子として歩み出すときに素晴らしい輝きを放つことができる。

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「神の愛する子・心に適う人」マタイ3:13-17 中村吉基

洗礼はとても大きな節目である。イエスがヨハネから洗礼を受けたとき、ヨハネはイエスが洗礼を受けることを思いとどまらせようとするが、イエスは洗礼を受ける。すると、神の霊が降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声が聞こえた。神は罪ある人々と同じように洗礼を受けられた主イエスを喜ばれた。主イエスの洗礼にならって、キリスト教会も洗礼を大切に受け継いできた。自然の中で大きな力を持つ水によって一度生まれ変わり、「私はイエス・キリストと共に歩む」という決意を表すのが洗礼である。洗礼は入学式であって免許を与える授与式のようなものではない。「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は私たちにもむけられている。洗礼によって、心に灯された光は輝き続ける。

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「インマヌエル」マタイ1:18-25 中村吉基

引き続きマタイから、今週はヨセフである。いいなずけ(12,3歳頃に約束される)であったがマリアの懐妊のを知り「戸惑い」「考え込」んでしまう。なぜなら当時の律法に反してしまうからである。しかし夢で天使の言葉をききヨセフはマリアを妻として迎える。これは神のご計画であり、普段から神への信頼を篤いマリアとヨセフも選ばれたのである。このヨセフの決断によって、私たちは主イエスをインマヌエルと呼ぶことができる。夢の言葉は、今の私たちにも語られている。主イエスはいつも私たちと共にいてくださる。争いや貧困などで今よりも一人の子どもの小さないのちが誕生するのにしてもさまざまな困難があった。その中でヨセフとマリアに喜んで受け入れられた命を心に刻み感謝と喜びをもって救い主イエスをお迎えしよう。

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「喜び、ひろげよう」マタイ11:2-12 中村吉基

アドヴェント3週目喜びの主日と呼ばれる日を迎え、先週に引き続き洗礼者ヨハネである。既にヘロデ王によって牢にあったヨハネはイエスの活躍を耳にしすぐに弟子を送り、彼が救い主かどうかを確かめる。想像していた強い指導者ではなかったからである。遣わされた弟子に対しイエスはイザヤ書をひいてお答えになった。その中にある「貧しい人」とはたんに経済的に困窮しているだけではない。障害など様々な理由から自由を失っている、しかし神様は救ってくださるという希望を見失わない人である。人生の困難や世界で起こる戦闘などで不安もあるが、ヨハネが「来るべきお方」と呼んだ救い主が友となってくださっている。希望を失なってはならない。ヨハネは自分の使命をわきまえて最後まで忠実に果たした。イエスが「偉大な者」と言った所以である。ヨハネに倣って神の愛を周りに伝えていくことが私達のつとめである。クリスマスを前に一人でも多くの人に神の愛を伝えよう。

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「神に心を向け直す」マタイ3:1-12 中村吉基

今日と来週の礼拝では洗礼者ヨハネの記事が朗読されるが、ヨハネに注目するためではなくヨハネが指差した救い主を見るためである。この箇所はルカ福音書にもあるが、マタイの方が迫ってくるものがある。まず命令形で「悔い改めよ。天の国は近づいた」とある。悔い改めというのは、聖書では心も体も「神に心を向け直す」ということである。そこには人間は神に背を向けて生きてしまうという前提がある。ヨハネは荒れ野で声をきき、悔い改めを説いた。イエスも伝道開始時に同様のことを言っている。神と私たちとが出会うことを導いてくださってるのである。神を感じるのは願いが実現した時ではなく闇の中や荒れ野のような状況である。私達が背を向けてもヨハネが示したように神の使者はまもなくおいでになる。ただ何となしにクリスマスを迎えるのではなく、自分自身の心が本当に神に向かっているのか糾明しながら待降節の一日一日を歩みたい。

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「その日、その時を知る神」マタイ24:36-44 中村吉基

待降節にはいった今日の箇所は直接クリスマスではなく終末の時(その日、その時)の再臨についての教えである。イエスが語っているのはノアの話、平和な時代に人々は自分の生活ばかり優先し放縦な生活を送っていたがノアだけは神の御心を受け止めた。そしてあの洪水である。続く40節での譬えは人の子の到来の日のこと。いつ来るかは誰にもわからないが「思いがけない時に来る」と書かれている。そのために目を覚まし、わからないことをわきまえて、用意していなければならない。今日の旧約の箇所のイザヤは「終わりの日に」と救いの日の訪れを表現している。もはや戦うことを学ばないとイザヤは宣言している。待降節は、クリスマスにむけて信仰を省みるとき。地上に平和がもたらすために神が願い、イエスが来られた。この世界が平和になるように待ち望み平和を作り出す人になることができるように祈りたい