
「わたしたちの祈り」マタイ6:1-15 中村吉基
どの教会の礼拝においても「主イエスが教えてくださった祈り」として祈られている「主の祈り」、原始教会ではクリスチャンになるものだけが知ることを許された「秘密の祈り」だった。主の祈りでは「我ら(私たち)」という語である。プロテスタントでは祈祷書を用いず自由祈祷が通例であるがともすれば自己中心的な祈りになってしまう。しかし主の祈りは「私個人の祈り」ではなく「私たちの祈り」すなわち共同の祈りである。中でも「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」では他者を赦す前に自分が赦されることの必要性が語られている。「赦す」ことは簡単ではない。しかし主イエスは人間の恨みや苦しみをすべて引き受け十字架の死を遂げられた。主の祈りを通して「私たち」が「赦され、赦す」ものへ変えられるようになりたい。