マタイによる福音書一覧

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「それでも人は立ち上がる」ミカ書7:1〜7 中村吉基

預言者ミカは、神の言葉を聞かない人々、役人、裁判官、友人家族を見て「正しい人はいなくなった」と苦悩していた。しかし苦しむ彼は「しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる」と神を信じてゆだねる。私たちもうまくいかず八方塞がりになることがあるが、自分で抱え込み自分で解決できない場合もある。つらい目にあった時「神の試練」なのか「悪の誘惑」なのか見分けるのは難しい。主の祈りに「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」とあるように、聖霊を信頼して、聖霊により頼むことですべてを乗り越えることができることを信じることである。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」とと思える日が必ず来る。

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「言い訳を捨てる」申命記18:15-22 中村吉基

モーセは言い訳の達人というわけではないが、言い訳が相手をまた神をどれほど悲しませるかを今日の箇所を通して考えてみたい。モーセは神がイスラエルの民を救うために立てられ、み言葉の伝達者にして忠実であることが求められた。単に伝えるだけではなく」従わない者があるならば神はその責任を追及する¥とある。とても厳しい。しかしクリスチャンとは主イエスが歩かれた荊の道に続いていくものである。そこに言い訳や言い逃れができない。道を歩む上で躊躇や苦悩を覚えてしまうが、聖霊がともにいてくださる。そのような歩みのなかに大きな恵みがあるものである。言い訳をしても神はすべてご存じだ。クリスマスにむけて神が私たちに贈ってくださった救い主イエスを見上げて歩みたい。

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「イエスにならう」マタイ4:1-11 中村吉基

先週14日の「灰の水曜日」、昨年の棕櫚の主日に飾られた棕梠の葉を燃やして、その灰をそれぞれの額につけて「土の塵」から想像されたことを思い起こした。今日の箇所では悪魔がイエスを誘惑した箇所である。しかしこの冒頭には〝霊〟によって導かれたのだとある。霊による導きによって悪魔の試練を受ける、すべては神のもとにるのである。さて、誘惑するものは石をパンに変えるように、つまり物質的なモノにように満たされることとと預言者としてのイエスを試している。旧約聖書のエリヤにちなんでいるものである。次に都の神殿の屋根の端に立たせ飛び降りたらどうだ?と誘い、自分さえ良ければいいとする誘惑(十字架にかけられた際に人々から侮辱も同じような言葉であった)と同時に祭司としてのイエスを試している。祭司は神と人の間を執りなす役割なので、神はイエスを助けるだろうというのです。次に悪魔は非常に高い山から国々を見せてもし、ひれ伏してわたしを拝むならこれをみんな与えようという。富と権力に対する試練、そして王としてのイエスを試している。これらに対してイエスは「退け、サタン」と言われる。サタンの誘惑は私たちにも向けられるし、私たちの中にもある。命も富も必要であるが執着してはいけない。私たちは神の言葉に従うことが大切である。神の言葉に導かれ養われることを受難節の課題としたい。

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「主は羊飼い」マタイ8:23-24 中村今日子

信徒の立証による礼拝 新型コロナウィルス流行の中での葛藤のあるデイサービスセンターの運営の苦しさを経て、アッシジのフランチェスコが全ての財産を投げ出して着ていた服も父親に返した場面の(ジョット)を見ようとイタリアに行く。アッシジのサンダミアーノ教会にいく道であった人々、帰り道の暑く日陰もない長く苦しい上り坂の途上、神に祈ること、話しかけることで、この三年半の間の様々な心の葛藤、結果などを思い起こていると、とても遠くに見えていた町の門が突然あらわれた。そこで初めて「長くて苦しいときにこそ、あわてずに、ひと足ひと足ずつ、少しずつ進んで、その時間を神様にお祈りをする時間にすればよいのだ。神様と一緒に歩けば、遠くて辛いと思うような道でも、ちゃんと行先まで進むことができる。 神様は私の行く道を示し、導いて、支えてくださっている。」とわかった。不思議な体験であった。これからの人生も私の行く道を示してくださるイエス様に導かれる羊の群れのうちのひとりとして歩みたい。

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「星に導かれて」マタイ2:1-12 中村吉基

今日は、主イエスが世界のすべての人の救い主としてお生まれになった公現を祝う日である。ここに登場する占星術の学者は「マゴス」と呼ばれる人々、「ペルシャないしバビロニア地方の祭司兼賢者で、占星術や夢占いなどをもよくした人」(佐藤研)である。ユダヤ社会では占いは禁じられていた。ヘロデでさえもひそかに呼び寄せたほどである。マタイのテーマの1つは「社会の中で差別されている人びとと主イエスとの出会い」、ユダヤの社会の中で認められてもいなかったマゴス達が幼子イエスの前に最初に拝むことを許されたのである。主イエスは私たちが「持てないもの」(あるいは持たないもの)をすべてご存知で、私たちの重荷や労苦を担うがためにお生まれになったのだ。学者たちは、星によって導かれるままにユダヤの国へ来たが、どこにお生まれになったかはわからなかったのは不思議である。ただ彼らは星を見て喜びにあふれたとある。そしてユダヤの人々にきいてわかった家に着くや否や幼子をひれ伏して拝んだのである。私たちも救い主に出会った時があったが、その喜びが小さくなってきていないだろうか?それを打開する方法は一つ、神が救い主をお与えくださったこのクリスマスの事実を周りの人々にも伝えていくことである。目的の場所まで導いてきてくださるのだという確信と、私たちが普段の生活の中で、他の人々とのかかわりの中で、私たち自身が誰かの「星」になっていきたいと思いながら、2024年の扉を開けよう。

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「あなたがたは行って……」マタイ28:16-20 中村吉基

5月18日木曜日が主の昇天記念日で世界中の教会で祝われたが、それは主イエスの力が全てに及ぶことを意味する。今日の18節以下で彼は弟子たちにすべての民を弟子にしなさいと言ったが、ただ信徒を増やせばいいのではない。福音の教えによって視座の転換、つまり悔い改めをすることが大切である。二千年前、わずか11人で始めた「イエスはキリスト」という教えを、異邦人にも積極的に伝道し、ある人は音楽や美術など遠して主イエスを表現した。私たちもイエスの弟子である。イエスは私たちに「行きなさい」と言われる。また20節にある「あなたがたに命じておいたこと」というのはたくさんあるが、最も大切なことは「神を愛し、隣人を愛しなさい」である。今日の箇所には「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とある。私たちも聖霊の力をいただいて今の自分にできることからはじめていこう。

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「イエスの驚き」マタイ8:5-13 中村吉基

自分の予想をはるかに超えたところに人は驚くことが多いが、今日の箇所でイエスは百人隊長に驚いている。何に驚いたのだろうか?1.5〜9節でみられるように百人隊長がイエスの権威、すなわち神のひとり子であることを信じているところ、2.百人隊長が異邦人であること。当時のユダヤ人は外国人は本物の神を知らない穢れた存在と思っていたのである。3.彼がローマ帝国の百人隊長という権威ある人物であったことである。百人隊長とは駐留していたローマ帝国軍の1つのユニットの指揮者のことで、そのような人物がイエスにお願いにきたこと。4.その部下に対する愛。当時の歩兵は百人隊長にとってみれば道具のように扱われていたにも関わらず、まるで99匹をおいても、迷ってしまった1匹を探しだすという神の視線を感じさせる行動。これにイエスは驚いているのである。これはフィリピの信徒への手紙2章6〜8節の神でありながら、それを捨てて、仕えられる者から仕える者へと変わられたキリストを彷彿とさせる。私たちが主イエスを驚かせるのはどんな時であろうか?彼がお示しになったすべてを人間に与える心、命までも差し出された十字架の心が、私たちの心と一致するとき、私たちは主イエスに驚かれるような者に変えられて行くのである。

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「失望から希望へ」マタイ28:1-10 中村吉基

祝イースター、神はイエス・キリストを死から復活させられた。まわりには、戦争や搾取など神の力は弱く悪が強いように見える。神の力に、死も悪も打ち勝つことはできないのだが、なかなか信じることができない。二千年前の復活にあった人達も非常に恐れている。ある人は仕事を捨て、家族と離れ、すべてを委ね、信じ、従っていた主イエスが十字架で殺されたのである。しかし死に打ち勝って神に復活させられた主イエスはもう安心するよう人々に語る。人間はだれでも生きていれば失望することがある。失望すると挫折をする。失望、挫折がなければ人間の成長はない。しかしそこに希望もまた生まれる。神の力を身体中に、心の隅々にいただいて、自分の足で立ち上がるのである。今日の箇所「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」とある。主イエスを甦らせたのと同じ神の力を、あふれるばかりの光を一身に受け、私たちのガリラヤに行くのである。「希望は失望に終わることはない」(ローマ5章5節、口語訳)。失望を希望に変えられてたどり着くところゴールに主イエスが待ってくださっている。そこへの希望の扉を開こう。

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「神の国はあなたたちのところに」マタイ12:22-32中村吉基

口の利けなくなっていた人が主イエスによって癒される奇跡をみて、人々は「この人はダビデの子(待ちに待った救い主)ではないだろうか」と驚く。イザヤ書35章にある神の約束が主イエスによって実現した時でもあった。主イエスの人気が高まり行く先々に群衆は押し寄せるほどとなると、疎ましく思ったり、妬んだり、ストレートに大嫌いだとする人もでてきた。ファリサイ派もその一例である。彼らは奇跡は認めるが、その力を神ではなく悪霊の頭のものであると主張した。そうではないと、イエスを救い主と認め自分たちの権威を捨てなければならないからである。しかしイエスは「サタンがサタンを追い出せば内輪もめではないか」と反論し、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのかとも訊く。ファリサイ派は考えを新しくすることを恐れ神の力を悪霊の力としたが、それは聖霊への冒涜なのであると次の箇所に続くのである。イエス・キリストと私たちの出会いは、私たちの側が変化することが求められる。受難節が始まる灰の水曜日に「ちり」からできた存在であることを確認し、御独り子を与えるほどにこの世を愛し、十字架の死からご復活まで神の栄光を見せてくださった神に、罪をわび、ゆるしていただく。また謙虚さが足りないときにじっくり黙想をして神に方向転換をする力をいただきたい。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」という言葉を信じて歩いて行こう。