マタイによる福音書一覧

NO IMAGE

「すぐに従った」マタイ4:18-25 中村吉基

4人の漁師の箇所である。夜通しの漁でも一匹の魚もつれなかった4人の漁師がイエスの言う通りにしたところその網が破れるほどに大漁に恵まれた。その後イエスの「人間をとる漁師」というやや奇妙にきこえる誘い(これは他の福音書も共通の表現)にすぐに職も家族も捨て従ったのである。私たちにできるだろうか?主イエスはいつも近づいてお招きくださる。しかしさまざまな理由をつけて呼びかけを遮ってしまっていないだろうか?今日の箇所からシモンたち漁師の「すぐに従った」行動に倣いたい。

NO IMAGE

「あなたは私の愛する子」マタイ3:13-17 中村吉基

今日はイエスの洗礼を記念する日、従ってイエスの洗礼の箇所である。今日の箇所を通じて、まことの神そして人として仕えるイエスの姿に学ぶところが多い。主イエスに従う私たちはさまざまな方法で招いて下さった。主イエスが教えてくださった「神の国」の住人になることの表明が洗礼である。しかし洗礼を受けてもそれにふさわしい生活ができないときがある。しかしどんな時にも神を信頼し続けるだけで神は私たちを忘れてない。神に愛されている人は皆神の子なのである。主イエスは今日も私たちに「あなたはわたしの愛する子」と言ってくださっている。

NO IMAGE

「向き合う者として」マタイ2:13-23 中村吉基

ヘロデによってイエスが殺されたら神の国の福音は人間に伝えられることがなかった。ヨセフはマリアとイエスを連れてエジプトに逃れるが、ヘロデ亡き後、息子アルケラオの支配が及ぶユダヤ地方を避けてナザレに住んだ。ヨセフとマリアは神の子を第一とする信仰を守っていた。神がアダムとエバをおつくりになったときの思いがヨセフとマリアに受け継がれているのである。ところでアダムのあばら骨から「彼に合う助ける者」として作られたエバという表記は長いこと男は女より優位という解釈を生んできた。しかしもともとの言葉は「エーゼル・ケネグドー」、いろいろな意味があるが英語圏では「パートナーとしての助け手」という語があてられている。同じ目線で助けあう存在なのである。我々は神さまから作られたお互い「エーゼル・ゲネグドー」として助け合い交わっていきたい

NO IMAGE

「人生を導く神の光」中村吉基

今日の箇所は「3人の博士たち」である。博士や王などと絵本や絵画ではあるが聖書の原文ではマゴイ、マジシャンのような意味である。また彼らはペルシアもしくはエジプト北部からきた異邦人であり、そこの占い師といえば「闇の中に生きている人々」と軽蔑の対象であった。神さまはそのようなマゴイに星を示して導いたのである。神さまがすべての人の、低いところにある人々にも、平等を願いイエスを送ったことを示している。マゴイ同様に私たちのことも守ってくださる。神さまと結ばれることによって我々は完全な者になることができる。人生の旅で迷ってもマゴイを導いた星を示してくださった神様を信じて祈り、神の御心を聞くことはできることを信じたい。

NO IMAGE

「キリストは私たちのただ中に」マタイ1:18-23 中村吉基

おとめマリアから生まれたイエス、しかしその誕生はヨセフにとってはどうであっただろうか。マリアの妊娠「夫ヨセフ」は「正しい人」ゆえにマリアが姦淫の罪からは免れる可能性を気遣いひそかに縁を切ろうと決心していた。しかし夢に現れた天使の言葉をきいて、マリア同様考え込んで神の人間を救おうとする壮大な計画を受け入れる。その子イエスはインマヌエルと呼ばれるという言葉どおり、この世の終わりまで私たちとともにいてくださる。この事実を喜び祝うのがクリスマスの本来の意義である

NO IMAGE

「それでも人は立ち上がる」ミカ書7:1〜7 中村吉基

預言者ミカは、神の言葉を聞かない人々、役人、裁判官、友人家族を見て「正しい人はいなくなった」と苦悩していた。しかし苦しむ彼は「しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる」と神を信じてゆだねる。私たちもうまくいかず八方塞がりになることがあるが、自分で抱え込み自分で解決できない場合もある。つらい目にあった時「神の試練」なのか「悪の誘惑」なのか見分けるのは難しい。主の祈りに「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」とあるように、聖霊を信頼して、聖霊により頼むことですべてを乗り越えることができることを信じることである。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」とと思える日が必ず来る。

NO IMAGE

「言い訳を捨てる」申命記18:15-22 中村吉基

モーセは言い訳の達人というわけではないが、言い訳が相手をまた神をどれほど悲しませるかを今日の箇所を通して考えてみたい。モーセは神がイスラエルの民を救うために立てられ、み言葉の伝達者にして忠実であることが求められた。単に伝えるだけではなく」従わない者があるならば神はその責任を追及する¥とある。とても厳しい。しかしクリスチャンとは主イエスが歩かれた荊の道に続いていくものである。そこに言い訳や言い逃れができない。道を歩む上で躊躇や苦悩を覚えてしまうが、聖霊がともにいてくださる。そのような歩みのなかに大きな恵みがあるものである。言い訳をしても神はすべてご存じだ。クリスマスにむけて神が私たちに贈ってくださった救い主イエスを見上げて歩みたい。

NO IMAGE

「イエスにならう」マタイ4:1-11 中村吉基

先週14日の「灰の水曜日」、昨年の棕櫚の主日に飾られた棕梠の葉を燃やして、その灰をそれぞれの額につけて「土の塵」から想像されたことを思い起こした。今日の箇所では悪魔がイエスを誘惑した箇所である。しかしこの冒頭には〝霊〟によって導かれたのだとある。霊による導きによって悪魔の試練を受ける、すべては神のもとにるのである。さて、誘惑するものは石をパンに変えるように、つまり物質的なモノにように満たされることとと預言者としてのイエスを試している。旧約聖書のエリヤにちなんでいるものである。次に都の神殿の屋根の端に立たせ飛び降りたらどうだ?と誘い、自分さえ良ければいいとする誘惑(十字架にかけられた際に人々から侮辱も同じような言葉であった)と同時に祭司としてのイエスを試している。祭司は神と人の間を執りなす役割なので、神はイエスを助けるだろうというのです。次に悪魔は非常に高い山から国々を見せてもし、ひれ伏してわたしを拝むならこれをみんな与えようという。富と権力に対する試練、そして王としてのイエスを試している。これらに対してイエスは「退け、サタン」と言われる。サタンの誘惑は私たちにも向けられるし、私たちの中にもある。命も富も必要であるが執着してはいけない。私たちは神の言葉に従うことが大切である。神の言葉に導かれ養われることを受難節の課題としたい。

NO IMAGE

「主は羊飼い」マタイ8:23-24 中村今日子

信徒の立証による礼拝 新型コロナウィルス流行の中での葛藤のあるデイサービスセンターの運営の苦しさを経て、アッシジのフランチェスコが全ての財産を投げ出して着ていた服も父親に返した場面の(ジョット)を見ようとイタリアに行く。アッシジのサンダミアーノ教会にいく道であった人々、帰り道の暑く日陰もない長く苦しい上り坂の途上、神に祈ること、話しかけることで、この三年半の間の様々な心の葛藤、結果などを思い起こていると、とても遠くに見えていた町の門が突然あらわれた。そこで初めて「長くて苦しいときにこそ、あわてずに、ひと足ひと足ずつ、少しずつ進んで、その時間を神様にお祈りをする時間にすればよいのだ。神様と一緒に歩けば、遠くて辛いと思うような道でも、ちゃんと行先まで進むことができる。 神様は私の行く道を示し、導いて、支えてくださっている。」とわかった。不思議な体験であった。これからの人生も私の行く道を示してくださるイエス様に導かれる羊の群れのうちのひとりとして歩みたい。