「イエスの弟子として」マタイ4:12-23 中村吉基
ガリラヤという「暗闇」とまで言われた辺境の地の漁師であった4人の人生が変わっていく。彼らは弟子になりたいと思っていたわけではなく、イエスの方から「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われてすぐに従っている。自分の生活があるのに、彼らも主イエスに触れて従うことを自分で決断したのかもしれない。イエスの人を見方や価値観というのは私たちとは根本的に違う。人ができないような働きや有名な大学等ではない。ごくありふれた普通の人を弟子にしている。それぞれの賜物を生かし、時々弟子に失望しながらも、弟子たちを用いた。我々は自分のことは自分が知っていると思っているが、人間のいのちを創ってくださった神の方がはるかにご存知である。神は無駄な物はお創りにならない。つまり今生きていることこそ、神が愛してくださっているというしるしなのである。私たちは神に出会って輝く人になる。今日の箇所には「悔い改めよ、天の国は近づいた」ともある。主イエスが4人の漁師たちに近づいていったように、神のほうから招いてくださっている。私たちは神の招きに応えて、主イエスの弟子として歩み出すときに素晴らしい輝きを放つことができる。