アブラハム一覧

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「神の言葉に委ねる」創12:1-9 中村吉基

「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい」という神の声をきいてアブラハムが実行したのは彼が75歳の時であった。彼は無鉄砲であったのではない、ひたすら神の言葉に従うと決心していたのである。彼の神さまに委ねて生きる姿に学ぶべきである。召命とは「神が自分に何を望んでいるのか」を考えることだが、それを応えて従うことが献身である。私たちの内面は「執着」や「安定」を求めてしまいがちであるが、神さまは私たちを呼んでくださっている。神さまは私たちに必要なものをすべて備えてくださっていることを信じてみ言葉を信じ、神さまが示す地へ行けるようにしたい。

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「その水をください」ヨハネ4:1-15 中村吉基

ユダヤと敵対関係にあったサマリアの地を通った時イエスはヤコブの泉とよばれる井戸で休んでいた。その時水をくみにきた女性に「水を飲ませてください」と頼む。パレスチナでは水は貴重で井戸は共同管理されており旅人が容易に使うことはできなかった。女性は「なぜユダヤ人がサマリアに頼むのか」と言うが、イエスは、もし私が誰なのか判っていたならば、あなたのほうが私に水を飲ませてくれと言うだろうに……。わたしは生きた水を持っているのだからと返す。生きた水と人間の救いのことである。しかし彼女は理解せずとんちんかんな受け答えをする。私たちも似たようなことをしていないだろうか。神が私たちに実現させようとしておられることを「まさか、そんなことができるはずがない」と否定してしまうのである。創世記でアブラハムとサラも子供をさずかるというお告げを笑ってしまっている。私たちは過去を捨てず、思い込み決めつけてしまう。今日の箇所には「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかしわたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とある。私たちにできないことがあっても、神にはそれができないことはない。消極的な自分の内側の声ではなく神のみ声に耳を傾けたい。今日の聖書の最後では、サマリアの女性から「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」という。私たちも神に「その水をください」と素直に大胆に申し出られるものになりたい。

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「分かち合うことから始めよう」ルカ16:19-31 中村吉基

毎週続けてルカによる福音書から神の御言葉を聞いているが、先週に引き続きいかに私たちに与えられている富を管理すべきかということである。今日の箇所はラザロのたとえ話である。この話は一見贅沢をした者が地獄へ貧しい者が天国へ行く話に思えるがそういうことではない。金持ちは悪いことをしたとは書いていないが家の前にいて苦しんでいたラザロに対して無関心だった。マザーテレサの言う「愛の反対」である。死後金持ちはラザロと同じ目に合う。今日の箇所の直前には「金に執着するファリサイ派」とある。神の律法とは神を愛し、隣人を愛し、貧しい人や困っている人のために自分の持っているものを分かち合うという精神があるが、自分の生活の豊さや細かい規定ばかりを熱心になっていたファリサイ派を批判している。その批判は私達のものでもある。後半のアブラハムの言葉は、今本当の教えを聞いているのにそれに心の扉を閉めてしまう私達の態度である。近くにいる小さくされた兄弟とは誰のことか、それぞれの兄弟に心の扉をひらく一週間にしよう。