「主に導かれて」出6:6-7 大島泰江
神がイスラエルの民を解放することを伝えるためにモーセを選ぶ。モーセは困難の中にあり自分の弱さを理由にためらうが、その弱さこそが神に選ばれた理由である。人の力ではなく神の恵みによって救いは成就する。私たちもまた、聖霊の助けを祈り求めながら、神が私たちを通して働いてくださることを信じ、主の導きに従って歩むものでありたい。
Yoyogi-Uehara Church
神がイスラエルの民を解放することを伝えるためにモーセを選ぶ。モーセは困難の中にあり自分の弱さを理由にためらうが、その弱さこそが神に選ばれた理由である。人の力ではなく神の恵みによって救いは成就する。私たちもまた、聖霊の助けを祈り求めながら、神が私たちを通して働いてくださることを信じ、主の導きに従って歩むものでありたい。
子ども祝福礼拝のため、子どもと大人合同の礼拝。「きみのかわりはどこにもいない」いのちのことば社を読みお話が続く。 小さな羊が迷子になってこわくてさみしい思いをした時、羊飼いは「いなくてもいいか」とは言わず、一生けんめいに探し、見つけたら喜んで抱きしめました。イエスさまは、この羊飼いのように神さまも一人ひとりを大切にし、「きみのかわりはどこにもいない」と思っておられると教えています。今日の子ども祝福礼拝は、その神さまの愛をお祝いする日です。100匹のうち1匹がみつからなくなった羊飼いはその羊(ワンダー)をあきらめずに探し、探したのちはお祝いまでする。それは神さまと同じ、世界に何十億の人がいても、ひとりひとりが特別な存在、「きみのかわりはだれもいない」のである。今日の子ども祝福礼拝はそんな神様の思いをお祝いする日です。
創世記のカインとアベルは神に受け入れられた者と退けられた者である。カインは弟をねたみ殺し神をあざむこうとする。そんなカインを神は見捨なかった。私たちも祈りがかなえられないと、失望することがある。神を自分の利益のために利用するのではなく、隣人と互いに支え合い生きていくことを神は望んでおられる。
1517年10月31日、マルティンルター「95か条の提題」を掲げたことに始まる宗教改革を記念する礼拝である。贖宥状によって腐敗した教会に「真理」を問いかけたものである。今日の聖書箇所「真理はあなたたちを自由にする」は、イエスの言葉にとどまる者が真理と自由を得ることを示す。聖書が語る自由とは自分の固定概念から解放されること、「神の真理」と「神の愛」に裏付けられたものである。プロテスタントとは「抗議する者」を意味であるが、それは自分自身を改革し変革し続ける者という意味ある。ともに自分たちの改革を続け、真理に裏付けされた自由を求めていこう。
創世記の天地創造は第七の日に完成され、神が安息なさったとある。神にとっては働くばかりではなく休まれる。安息も神聖なことと聖書は教える。安息日は6日の仕事のプレゼントではなく、働くことをやめ神に心を向ける日なのである。そして新しい力をいただき、レクリエーション(再創造)される。神は生き生きとしている姿でいることをお望みであり、神を喜ばせる生き方は人生の最大の目的である。
今日の箇所でヤコブは教会内で貧富の差で人を分け隔てすることをたとえにあげている。当時はよくあったのだろう。しかし現代でもそれはある。人をえこひいきすること(差別)は神の御心に反する。神が愛され、選ばれるのは貧しい人達である。ほかの誰かを憐れむことができない人は、自分自身も神に憐れまれることはない。自分本位ではなく、「相手本位」だったイエスさまの姿に倣い教会を形成していこう
分裂していたコリント教会にむけて書いたパウロの書簡が今日の箇所である。人は教えを受けたものを尊重してしまうが、信仰は指導者に対してあるべきではない。パウロは自分の働きは洗礼の数ではなく福音を伝える事、十字架の復活と恵みが教会の中心なのだと書く。現代でもこのような派閥や対立が生まれがちであるが、意見や立場の違いを超えて互いに支え合い、十字架のもとで一致する群れである必要がある。そしてその一致は我々の努力ではなく神の賜物である。
齢を重ねることは神さまからの恵みであることを憶えて今年から始めた「恵老祝福礼拝」。年齢を重ねると「もう自分の働きは終わった」と思うが、聖書は、人生の晩年こそ新しい仕方で神が働かれる時である、と語る。今日の聖書箇所のパウロの手紙では、前を向くと書かれているが、彼は宣教故に牢獄で死を間近に見つめていた。しかし信仰の歩みには終わりがない。神は人生のどの時期にも私たちを用いて下さる。今日の礼拝にあたり年長者の歩みに感謝し教会にとってかけがえのない力であることを忘れず、ともにキリストを知るというゴールにむけて歩み続ける。
今日の箇所では、神がその計画に従って私たちをあらかじめ選び、御子に似た者とし、使命を与えてくださるとある。善と悪がせめぎあうこの世で、神が「善きこと」に向けて導いてくださると信じる者は希望をもって歩むことができる。差別の対象であった同性愛者でありながら政治家として活躍し、マイノリティの希望となりながら最後には殺されてしまったハーヴェイ・ミルクはよく「人は希望がなければ生きるに値しない」と語った。神は絶えず希望を与えてくださる。その希望を胸に進むことが幸せである。
イエスを信じ、苦しい病を癒された者、死から甦った娘、イエスはすぐに彼らを癒した。そしてそれを見学し騒いでいる群衆を外に出した。イエスは同情なさり、騒いでいる群衆は反対である。私たちはイエスのように奇跡を起こすことはできないが、イエスのように人の話を聞くことはできる。本来「同情することのできる者」として神に造られている。同情しあい愛し合うことは、神さまの愛を行うチャンスと言える。