主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに一覧

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「後悔のその先に」ヨハネ11:17-27 中村吉基

マルタとマリアの物語は、イエスとの深い信頼関係を描く聖書の中でも特に印象的な場面の一つである。兄弟ラザロの死に直面した姉妹は、「主よ、もしここにいてくださいましたら…」と嘆き、深い悲しみと後悔に包まれていた。しかし、イエスはその痛みに共感し、自らも涙を流された後、ラザロを復活させる奇跡を起こされた。これは、すぐに奇跡が起こると信じてはいなかったにせよ、イエスを救い主として信じ続けた姉妹の信仰によるものである。この出来事は、現代を生きる私たちにも深い示唆を与える。身近な人の死や人生の過ちに対する後悔は誰しもが経験することであるが、その感情に囚われ続ける限り、前に進むことはできない。イエスの「出て来なさい」という呼びかけは、私たちを絶望の中から救い出す希望の言葉である。マルタの「わたしは信じております」という告白は、信仰によって未来へと歩み出す決意の表れであり、神は私たちにも同じように信仰と希望をもって生きることを望んでおられる。

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「ラザロ、出てきなさい」ヨハネ11:28-44 中村吉基

先週引き続きラザロである。ラザロの死後到着したイエスに姉妹のマリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」という。マルタと同じである。しかしイエスは「もし信じるなら。神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言い、天を仰ぎ「周りにいる群衆のため」と祈り、「ラザロよ、出てきなさい」と言われた。すると、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていたラザロがでてきたのである。現代の私たちにとって「巻かれている」(言語では繋ぐ、縛るのような意味もある)というのはとても厄介である。ガラテヤの信徒への手紙5章1節でパウロが書いているように「「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由にしてくださった」のである。ラザロはキリストによって巻かれていたものを取り払われた。これと同じように私たちも今日イエスはが名前を呼んで下さり、「出てきなさい」と、闇の中から光のあるところへと引き戻してくださる。病の中でも、失望の中でも、キリストがあの重い十字架を背負い、今この時も共に苦しんでくださっている。しかしマルタとマリアのように「主がいて下さったら、こうならなかったのに・・・」と不満を持ってしまっていないだろうか。主は今日も光の中を歩んでほしいと強く願い、「出てきなさい」という呼んでくださっている。