中村吉基一覧

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「わたしがあなたと共にいる」エレミヤ1:4-8 中村吉基

預言者エレミヤは神から呼びかけられたとき若者であることなど理由に断る。しかし神は「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と約束される。私たちが困難にあっても欠けたとことがあっても「神さまがともにいてくださる」それがもっとも幸福な状態である。実際のエレミヤは一見神様に守られてるようには思えないが思わぬ形でおられた。私たちの恐れや嘆きも神さまが共にいてくださることを信じて歩もう

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「わたしたちは一つの体」コリントⅠ 10:14-22 中村吉基

今日は「世界宣教の日」「世界聖餐日」です。日本キリスト教団は6か国に9人の宣教師を派遣しており、世界中の教会と連帯して聖餐を祝います。パウロは、聖餐を通してキリストと「交わる」ことが大切であり、キリストの血と体にあずかることが偶像礼拝から逃れる道でもあるとしています。ナチス時代のドイツ教会がキリストの教えに忠実であろうとし、困難な状況においても信仰の共同体として一致しました。私たちの日本もかつて戦争に突き進み、散り散りになっていきました。聖餐は、私たちがキリストを信じることで一つの体となり、神の力を信じて祈る場です。心を一つにして祈るところにのみ神の力が顕されることを信じましょう。

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「あなたは誰ですか」ヨハネ10:27-30 中村吉基

イエスは私たち人間を羊に喩え、羊飼い=イエスの声を聞き分ける者には永遠の命を与えると語っています。毎日の生活の中で神さまの声を聞き分けることができるようになるには、すぐ近くにいる人々の声を聴くことが大切です。神さまはさまざまな人との出会いを通して、歩むべき道を示してくださるのです。私たちと出会うすべての人が神さまの子どもであり、イエスは「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と語りました。イエスについていくことを妨げるのは人間の弱さではなく、「羊飼いなどいらない」と思ってしまう自信過剰です。そのことを心に留めて新しい一週間を歩みましょう。

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「正直に生きる」ヨハネ8:1-11 中村吉基

姦通の罪で石打ちの刑が処される女を前にファリサイ派がイエスに尋ねる。律法を守るのかイエスが説いていた「神さまの赦し」なのかということである。それに対しイエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言い、自分の犯した罪を思って投げられなかった人々が立ち去ると、イエスはその女性を罪に定めない、これからは罪を犯してはならないという。罪に定めないとは2つ意味がある。女性がしたことがいいことではないが、赦されたこと神がさまにいつも愛されていることであることを知って精一杯生きてほしいと願い、2つ目は過去よりも今日からの生き方に値打ちがある、再出発の機会を与えて下さる神様であるということである。自分を「正しい」と思わず「正しくあろう」という途上であり、心を柔軟にもちどんな時も軌道修正できることが信仰の中心である。それは自分自身の力ではできない。「そのまま」の自分をしっかりと見つめて、時には軌道修正することで神さまの祝福を受けることができる。

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「マイム・マイム」ヨハネ7:37-39 中村吉基

聖書の舞台イスラエルでは水が大変貴重であることから、「水」は神の救いの象徴となっていきました。イエスは渇いた人々に「私のもとに来て飲みなさい」と呼びかけ、魂の渇きを満たす「生きた水」の働きを示しています。また、この「生きた水」は、信じる者の内から他者に広がり、喜びと慰めをもたらすのです。

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「もう一度、やり直せる」コリントの信徒への手紙Ⅱ5:16-19 中村吉基

クリスチャンとして生きることは、単に性格や振る舞いを変えるだけでなく、キリストと結ばれることで、過去の自分から新しい自分へと変わることを意味します。渡辺峯さんは、神の導きによって人生を変えられ、信仰と平和への貢献しました。この変化は、「新しい命」を意味し、神が私たちを守り導いてくださることを信じることが大切です。

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「負けて勝つとは」 マタイ26:47-52 中村吉基

今日は平和聖日、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」とイエスが言われたとおり、平和を思い浮かべるのではなく作り出すものにならなければならない。沖縄で米国の土地強奪に対して非暴力で立ち向かった阿波根昌鴻の作った「ヌチドゥタカラの家」も壁には「すべて剣をとる者は剣にて亡ぶ」とある。今日の説教題は阿波根さんの言葉である。イエスさまは剣を突きつけた敵たちをゆるされた。「負けて勝つ」とはそういうことである。神さまもまた私たち人間が犯した罪責への悔い改めを受け容れ救いに導いて下さる。

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「永遠の命を得るために」ヨハネ6:41-59 中村吉基

「わたしは天から降って来たパンである」といわれて私たちは受け入れられるだろうか?イエスのこの言葉を聞いた人々は「彼は大工の子で平凡な村人ではないか」とざわつく。それを見たイエスはつぶやき合うのはやめるように、つまり不平を言わず神を見るように言う。イエスは「わたしにつまずかない者は幸いである」とよく言われた。馬小屋で生まれ貧しい人の姿をしたイエスが「天から来た」と言うことが…人は常識を覆されるようなことを言われても即座に信じることはできないのである。しかし私たちと主イエスが結ばれるために神様が手を差し伸べてくださる。人間関係でも心を開いた方が関係はよくなることが多い。神に対しても同じである。私たちは主イエスを本当の「いのちのパン」として信じて受け入れイエスのみ言葉を私たちの日ごとの食物として生きるならば、今日の最後の節51節にあるように「その人は永遠に生きる」ことができる。

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「いのちの糧」ローマ14:10-23 中村吉基

パウロはローマの信徒への手紙に「食物規定」について書いている。旧約の律法はさまざまな戒律があり何千年にもわたり守られていたが、その解釈によって、例えば菜食か否かなどで問題も起こっていた。パウロはこの問題について心を痛めていたようである。信徒にむかって、戒律を重んじる信仰の弱い人批判せず受け入れるように言う。食物について、かつてイエスは「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができない」と言われたが、パウロも「わたしは主イエスによって知り、そして確信しています」「汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです」と続ける。人間は聖俗など分けるが全て神がお造りになったものである。神の関心は誰が何を食べるかではなく魂である。私たちの内側に活きる神が見えなくなる時に神の愛に生きる道から外れてしまう。キリストは、食べ物のことで悩む兄弟のためにも死んでくださってるのである。パウロがいうように「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜び」であり、平和や互いの向上に役立つことを追い求めることがクリスチャンである我々がこの地上の教会を作り上げるようにと招かれている。