「主の道を整える」マルコ1:1-8 中村吉基
今日は待降節第2主日、平和の主日。今日の箇所では洗礼者ヨハネは荒れ野で悔い改めの洗礼を宣べ伝え、主の道を整える役割を担った。当時の荒れ野とは絶望の場所であったが、そこに神は道を整えてくださった。悔い改めとは反省改善だけではなく、神に立ち返る、我々の存在を神に向きなおすことである。心に主の道を整えることなのである。ただのクリスマスではなく、このことを見つめながら待降節を歩みたい
Yoyogi-Uehara Church
今日は待降節第2主日、平和の主日。今日の箇所では洗礼者ヨハネは荒れ野で悔い改めの洗礼を宣べ伝え、主の道を整える役割を担った。当時の荒れ野とは絶望の場所であったが、そこに神は道を整えてくださった。悔い改めとは反省改善だけではなく、神に立ち返る、我々の存在を神に向きなおすことである。心に主の道を整えることなのである。ただのクリスマスではなく、このことを見つめながら待降節を歩みたい
齢を重ねることは神さまからの恵みであることを憶えて今年から始めた「恵老祝福礼拝」。年齢を重ねると「もう自分の働きは終わった」と思うが、聖書は、人生の晩年こそ新しい仕方で神が働かれる時である、と語る。今日の聖書箇所のパウロの手紙では、前を向くと書かれているが、彼は宣教故に牢獄で死を間近に見つめていた。しかし信仰の歩みには終わりがない。神は人生のどの時期にも私たちを用いて下さる。今日の礼拝にあたり年長者の歩みに感謝し教会にとってかけがえのない力であることを忘れず、ともにキリストを知るというゴールにむけて歩み続ける。
戦後80年目の夏、改めて「平和」を考える。毎週礼拝できるのも平和である。今日の聖書箇所のイザヤ書には「完全な平和」がある。戦いの道具がいのちを育てる道具に神によって変えられる素晴らしい世界である。イエスが十字架にかけられる直前に弟子が敵を攻撃しようとしたときも「剣をとるものは剣で滅びる」とイエスは弟子をたしなめた。私たちの力ではすぐに世界を変えることはできないがまわりにある小さな平和を大切にすることはできる。たとえ先が見えなくても神様はともにいてくださることを信じ、平和の道を信じて歩こう
神を知らないまま生きていいた「暗闇」の者がキリストにより神を知り「光」となるとパウロは表現する。光は単なる明るさではなくキリストのことである。パウロは「光の子として歩みなさい」と勧める。神は分け隔てなくすべての人をキリストの救いに招いてくださる。それは突然立派な人になれるわけでなく、神に愛される者に生まれ変わるということである。やがて来る死に不安を抱くことがあるが、死は終わりではなく神のもとへの帰還である。私たちは地上で成し遂げる役割があり、神のもとへと帰る。今は亡き人たちはすでに神の元で安らぎのうちにある。再会を胸に地上で光の子として歩もう
イザヤ書65:17-25;マタイによる福音書28:11-25 先週はご一緒にイースターの礼拝を捧げました。今日の箇所はその続きのところからです。 マグダラのマリアを始めとする人々は、主イエスが納められていた墓の前に呆然...
聖書の時代、病気や災いは悪霊の仕業と考えられていた。イエスは悪霊を追い払い、病を癒し、その力が神から来たものであると信じる者が増えた。しかし、ファリサイ派はイエスの力を悪霊の頭ベルゼブルによるものだと非難した。イエスはそれに対し、悪霊が悪霊を追い出すことはあり得ないと反論し、自らの力が神の霊によるものであることを示した。また、聖霊への冒涜は赦されない罪であり、神の霊による業を否定し続けることが罪であると警告した。この教えは、私たちが謙虚に悔い改め、神の導きを受け入れることの重要性を説いている
信仰の中にある「恐れ」と「疑い」というテーマが取り上げられている。ペトロが湖の上を歩く奇跡的な出来事を通じて、信仰を持つ人でも不安や疑念が湧くことが示される。特にペトロが強風に恐れ、疑いを抱く場面は、私たちが信仰の中でも揺れ動くことを象徴している。その中でイエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけ、信仰を持って助けを求める者を支えてくださる。この言葉は、現代に生きる私たちにとっても大きな慰めとなり、信仰が試練の中で強められることを示唆している。イエスの奇跡の力とともに、信じる力が重要であり、恐れや疑いの中でも神にすがることが大切であることが教えられている。
今日の箇所は「3人の博士たち」である。博士や王などと絵本や絵画ではあるが聖書の原文ではマゴイ、マジシャンのような意味である。また彼らはペルシアもしくはエジプト北部からきた異邦人であり、そこの占い師といえば「闇の中に生きている人々」と軽蔑の対象であった。神さまはそのようなマゴイに星を示して導いたのである。神さまがすべての人の、低いところにある人々にも、平等を願いイエスを送ったことを示している。マゴイ同様に私たちのことも守ってくださる。神さまと結ばれることによって我々は完全な者になることができる。人生の旅で迷ってもマゴイを導いた星を示してくださった神様を信じて祈り、神の御心を聞くことはできることを信じたい。
おとめマリアから生まれたイエス、しかしその誕生はヨセフにとってはどうであっただろうか。マリアの妊娠「夫ヨセフ」は「正しい人」ゆえにマリアが姦淫の罪からは免れる可能性を気遣いひそかに縁を切ろうと決心していた。しかし夢に現れた天使の言葉をきいて、マリア同様考え込んで神の人間を救おうとする壮大な計画を受け入れる。その子イエスはインマヌエルと呼ばれるという言葉どおり、この世の終わりまで私たちとともにいてくださる。この事実を喜び祝うのがクリスマスの本来の意義である
今日の箇所の預言者は通称を第3イザヤといい、イスラエルがバビロン捕囚から解放され破壊された神殿を再建した頃に活動した。無残に破壊された神殿を前に失意のどん底にあった人々に第3イザヤは希望をもって神の言葉を取り次いでいった。「失意の中、力を失くし、絶望し、嘆いている人に」「打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人には解放を告知」する力を持った「知らせ」である。私たちも苦難の中にあり、時には報復も考えてしまうときもある。しかし神は苦難に喜んで与えているのではなく、私たちがどう対処するかをご覧になっている。神は私たちを高く評価し日々私たちを上昇させようとされている。待降節ははやる心を抑えて待ち、自らの信仰を省みる時である。神にすべて委ねよう。ガラテヤの信徒への手紙でパウロがこう言う「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります」