2025年08月一覧

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「1000の言葉より 一度の寄り添い」マタイ9:18-26 中村吉基

イエスを信じ、苦しい病を癒された者、死から甦った娘、イエスはすぐに彼らを癒した。そしてそれを見学し騒いでいる群衆を外に出した。イエスは同情なさり、騒いでいる群衆は反対である。私たちはイエスのように奇跡を起こすことはできないが、イエスのように人の話を聞くことはできる。本来「同情することのできる者」として神に造られている。同情しあい愛し合うことは、神さまの愛を行うチャンスと言える。

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「救う方がシオンから」ローマ11:25-36廣石 望

パウロは現代イスラエルのことを当然知らないが、ローマ書簡を通して現在をとらえる眼差しがどうあるべきかを考えたい。この中で救いとは4つあると示す。〈律法の行為による救い〉、〈律法なしの義認〉、〈変貌による救い〉、そして今日の箇所である〈選びによる救い〉である。パウロは伝道によって集まった異邦人に神殿祭儀を解放することでイスラエルの不信を取り除くと夢見ていたのかもしれない。神の憐れみは人間の信仰ではなく神が中心なのである。そういう意味で現在のシオニズムとパウロの考えは違う。私たちが平和を求めるなら個別の内的確信に基づきその限界を超えなければならないことをパウロは示唆しているように思う。

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「わたしの名によって」ヨハネ16:23-33 廣石 望

8月6日、広島平和記念式典に出席した。会場近くの原爆供養塔がある。今日の箇所では処刑されたイエスが神によって復活したという信仰が生じた際に死者と聖者はどのような関係にあったのかという問いがある。この福音書は復活と聖霊への確信がある。故に主イエスの名によって祈り、神と信仰共同体の間で直接的な関係が可能となり、神とイエスそして信仰者の間に「愛する」という関係が生じている。しかし戦争や差別の場にあるとき、キリストと共にあるとはいいがたい。しかしイエスはすでに世に勝っており、私たちが礼拝で言う「主の平和」は苦難の只中にあっても実現されている平和である。これは、そのつど勝ち取られる必要がある

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「先の見えない時にも」イザヤ2:1-5 中村吉基

戦後80年目の夏、改めて「平和」を考える。毎週礼拝できるのも平和である。今日の聖書箇所のイザヤ書には「完全な平和」がある。戦いの道具がいのちを育てる道具に神によって変えられる素晴らしい世界である。イエスが十字架にかけられる直前に弟子が敵を攻撃しようとしたときも「剣をとるものは剣で滅びる」とイエスは弟子をたしなめた。私たちの力ではすぐに世界を変えることはできないがまわりにある小さな平和を大切にすることはできる。たとえ先が見えなくても神様はともにいてくださることを信じ、平和の道を信じて歩こう